第38話 混迷の夜の始まり※イザベラ視点

「今日こそ、完璧な夜になる」


 鏡に映る自分を見つめながら、私は確信していた。


 今日のために用意させた最高級のドレス。腕の良い仕立て師に依頼した、深紅のシルクドレス。胸元と袖口には繊細な刺繍が施されている。光の加減で金色に輝く、美しい装飾。バラの花びらを模した刺繍が、まるで本物のように立体的に浮かび上がっている。


 完璧に整えられた髪。一本の乱れもない。真珠と宝石が散りばめられた髪飾りが、光を受けてきらめいている。専属の侍女に三時間もかけて仕上げさせた、完璧なヘアスタイル。


 そして、この美しい笑顔。


 私は、誰よりも美しい。お姉様より、ずっと。


 鏡の中の自分に、満足げに微笑みかける。唇の色も完璧。頬の紅も、ちょうど良い加減。瞳も輝いている。


 会場に、数多くの貴族が集まってくる。こんなに注目されるパーティーは、初めて。文官貴族も、軍人貴族も。分け隔てなく招待した。お姉様がやったように。


 でも、私の方が上だと証明する。


 必ず、そう言わせる。


 前回のパーティーは「無難」だった。「十分」「問題ない」「前回よりずっと良かった」。そんな評価。まるで、できない子を励ますような言葉。


 そんな言葉では、満足できない。


 私が欲しいのは、「完璧」という称賛。「素晴らしい」「見事」「今までで一番」という賞賛。心からの、敬意のこもった賞賛。


 今日こそ、それを手に入れるチャンス。


 お姉様がリーベンフェルト家で開いたパーティーは、確かに評判だった。「画期的」「革新的」と、社交界で話題になった。文官貴族と軍人貴族の壁を壊すことに成功した、とまで言われている。


 くっ。


 思い出すだけで、腹が立つ。なんで、お姉様ばかり。


 今日の私のパーティーは、もっとすごい。もっと華やか。もっと印象的。


 とっておきのサプライズを用意してあるから。


 あれを見れば、誰もが目を見張る。そして、称賛する。「こんなパーティーは初めて」「イザベラ様は、素晴らしい」と。口々に褒め称えてくれる。お姉様の「画期的」なんて、霞んでしまう。


 完璧な夜の、最高の締めくくり。


 前回の噴水は……確かに、失敗だった。暴走して、会場が水浸しになって。あれは、スタッフの準備不足が原因。私のアイデアが悪かったわけじゃない。アイデアは素晴らしかった。ただ、実行したスタッフが無能だっただけ。


 でも今回は、違う。


 今回は、もっと確実に。もっと印象的に。成功させる。


 前のスタッフを全員解雇したのは、正しい判断だった。今のスタッフは、私の指示をちゃんと聞く。前のように反抗的な態度を取ることもない。


 深く息を吸い込む。


 胸に手を当てて、鼓動を確かめる。高鳴っている。期待と、緊張と、そして確信。もう一度、鏡を見る。


 笑顔を作る。完璧な、美しい笑顔。誰もが見惚れる、魅力的な笑顔。


 さあ。


 完璧な夜の始まり。


 今日こそ、私が社交界の中心になるのよ。社交界にはびこる、お姉様の影なんて、私が完全に消し去ってやる。




 会場に向かうと、既に多くの馬車が到着していた。


 想像以上の数。受付のある玄関前に、次々と馬車が横付けされている。御者たちが慌ただしく動き、貴族たちが降りてくる。


 華やかなドレス。立派な正装。宝石を身につけた貴婦人たち。威厳のある紳士たち。


 これだけ多くの人が来てくれるなんて。


「やはり、私のパーティーは注目されている」


 胸が高鳴る。


 これだけの人数。これだけの貴族たちに、今夜のサプライズを披露できる。それが嬉しい。規模が違う。格が違う。


 玄関を通り、受付の方へ向かう。


 しかし——


「お待ちください」

「申し訳ございません、少々お待ちを」

「今、確認しておりますので」

「もう一度、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


 受付の前に、長い列ができていた。


 私は立ち止まって、その光景を見つめる。


 参加者たちが、何人も何人も、列を作って待っている。中には、明らかに不機嫌そうな顔をしている貴族がいる。腕を組んで、足を踏み鳴らしている方もいる。


 前に見た光景。初めてのパーティーを運営した時の。


 どうして?


 受付は、スムーズに進められるようになったはずでしょ。順番に名簿を確認して、案内するだけ。簡単なこと。前回は、ちゃんとできていたのに。


「どうなっているの?」


 小走りで受付に近づく。


 スタッフたちは、名簿を何度も何度も見返している。ページをめくり、指で文字を追い、また最初に戻る。慌てた様子で、別のスタッフと何かを確認し合っている。


「あの、お名前をもう一度」

「何度、同じ確認をするつもりだ!?」

「も、申し訳ございません」


 参加者の一人が声を荒げる。スタッフが深々と頭を下げていた。トラブルが起きている。


「どうなってるのよ!?」


 近くにいたスタッフに小声で確認する。彼は、額に汗を滲ませながら説明する。


「数が多く、名簿の順番も整理されていなくて、確認作業に時間がかかっています」

「どういうこと? ちゃんと名簿は作ってあるでしょう!?」

「はい、ただ……」


 スタッフは言葉を濁す。


「名簿の順番がバラバラで、家格順にもなっていなくて、探し出すのに時間がかかるのです」

「とにかく、早く対応して!」

「……はい」


 スタッフは額に汗を滲ませながら、必死に名簿をめくっている。でも、列は一向に短くならない。


「まだですか?」

「どれくらい待たされるのでしょう」

「招待状は持っているから、後は確認するだけでしょう?」

「こんなに待たされるとは、聞いていませんが」


 列に並ぶ貴族たちから、不満の声が漏れ始める。ざわざわと、受付の周りが騒がしくなる。


 私の額にも、冷や汗が滲む。こんなはずじゃなかった。


 前回も、前々回も、こんなに混乱することはなかったのに。スムーズに進んだのに。出来るようになったんじゃないの?


「イザベラ」


 背後から声がして、振り向く。そこにロデリックが、立っていた。彼は眉をひそめている。その表情は、明らかに不安そう。いえ、不安というより、苛立ちに近い。


「受付が混乱しているようだが、大丈夫なのか?」

「ええ、大丈夫です」


 慌てて笑顔を作る。


「すぐに落ち着きますから」

「そうか」


 ロデリックは、そう言ったが、表情は硬いまま。私の言葉を信じていない様子。


「参加者が予想以上に多いようだが、対応できるのか?」

「もちろんです。準備は完璧ですから」

「……そうか」


 それだけ言って、ロデリックは受付の方を見る。まだ列は続いている。彼の眉間の皺が、深くなる。


「何かあったら、俺にも報告しろ」

「大丈夫です。心配しないでください。パーティーの運営は、私におまかせを」


 もう一度、笑顔を作る。でも、ロデリックの表情は変わらない。


 普段は口出ししてこないのに、今日は妙に介入しようとしてくる。疑っている。そんな目で見ている。


 前は、私のことを信じてくれていたのに。


 そして彼は、会場の中に戻っていった。そんなロデリックの背中が、どこか冷たく感じた。何なのよ、もう。


「イザベラ様」


 別のスタッフが、駆け寄ってくる。息を切らして、慌てた様子。


「会場内の配置ですが、計画書と異なる部分があり……、テーブルの位置が変更されているのですが、料理の配膳ルートと合わないようで」

「後にして!」


 思わず、強い口調で言ってしまう。スタッフは、びくりとして下がる。怯えた表情で、私を見つめている。まだ、受付の問題があるというのに。


 深呼吸。


 落ち着いて。


 まだ、パーティーは始まったばかり。これから、挽回できる。


 受付の混乱も、すぐに収まる。そして、サプライズも用意してある。


 あれを見れば、誰もが驚いて、喜んで、最初の混乱なんて忘れてしまう。大丈夫。最終的に私のパーティーは、成功する。


 必ず。


 でも——


 列を見つめながら、胸の奥に小さな不安が芽生える。ほんの少しだけ、計画通りに進んでいない。


 ほんの少しだけ。




 しばらくして、ようやく受付の混乱が少し落ち着いてきた。


 スタッフたちが必死に対応して、列も短くなってきている。まだ完全には解消されていないけれど、とりあえず私は会場に入ることにする。


 今日の計画では、まず主要な貴族に挨拶して回る予定。文官貴族と軍人貴族、両方に。分け隔てなく。




 参加者の名簿とスケジュールを確認しながら、ロデリックと一緒に会場を回り始める。


「まず、あちらの公爵夫妻から」


 私が言うと、ロデリックは無言で頷く。表情は、相変わらず硬い。最初の挨拶は、予定通りスムーズだった。


「本日はお越しいただき、ありがとうございます」

「こちらこそ。お招きいただき、光栄です」


 笑顔。社交辞令の言葉。良い感じ。


 次の貴族へ。そして、その次へ。休むことなく、挨拶を続ける。




 だが、そこにも問題が待ち構えていた。


 挨拶すべき相手が、あまりにも多すぎる。これじゃあ、時間が足りない。


 多くの貴族を招待したのだから、当然なのだけれど。でも、実際に会場を見渡すと、想像以上の人数。


 一人ひとりに挨拶をして、少し会話をして、それから次の方へ。たったそれだけで、どんどん時間が過ぎていく。


 また挨拶。また会話。予定を大幅に超過している。


 名簿を確認する。まだ、挨拶していない重要な貴族が、こんなにいる。


「時間がない」


 ロデリックの声は、冷たい。


 顔を見上げると、彼は明らかに苛立った表情をしている。腕を組んで、私を見下ろしている。


「イザベラ、このペースでは間に合わないぞ」

「わかっています。でも、挨拶しに行かないと失礼に……」

「前回は、もっとスムーズだったはずだが」


 その言葉に、胸がチクリと痛む。


 前回?


 前回は……そう、もっとスムーズだった。挨拶まわりも、計画通りに進んだ。


 でも、前回は規模がもっと小さかった。招待客の数も、今回の五分の一程度。


 それに、前回は——


 お姉様の計画書を参考にして作ったスケジュールだった。今回は、私が改良した計画書。もっと多くの人に挨拶するように、順番も変えて、時間配分も調整したつもりだったけれど。


 でも、実際にやってみると、全然足りない。一人ひとりとの挨拶だけなのに、予想以上に時間を取られる。ちょっと会話してしまうと、それで更に時間が伸びる。


 間違っていたかもしれない。事前にもっと考えて、挨拶する相手を選んでおくべきだった。ちゃんと選び抜いたつもりだった。けれど、この人数だけでも無理だった。


 いえ、違う。


 予想以上に参加者が多かっただけ。私が悪いわけじゃない。




「とにかく、急ぎましょう」


 私はロデリックを急かして、とにかく計画通りに進めようと必死になり、次の貴族へと向かう。


 年配の方々。社交界で重要な立場にある方々。まだ、挨拶していない貴族が大勢いる。ちゃんと挨拶すべき方々。


 でも、もう時間がない。後の予定が押して、スケジュールが狂っていく。


 名簿を見る。ようやく半分が終わったぐらい。これを続けたら、パーティーの終了時刻まで伸びてしまう。そうすると、サプライズの予定時間まで……。


「仕方ない。予定を変更して、次の行程に進めましょう」


 私は、そう決める。スタッフに指示を出す。


 挨拶できなかった方々には、後でゆっくりと。料理の合間にでも。臨機応変に対応するしかない。


 そう、自分に言い聞かせる。なんとかするしかないのよ。


 でも、胸の奥の不安は、少しずつ大きくなっていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る