第2話

「覚えていてくれたんですね!」


夏海は、カップを両手で包み込むように持ちながら、嬉しそうに微笑んだ。

ミルクティーの香りが、あの頃の記憶をそっと呼び起こす。


一口飲むと、優しい甘さが口の中に広がった。

「変わらないなぁ…」


そう呟いた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなり、自然に涙がこぼれた。


マスターは何も言わず、静かにカウンターの奥でカップを磨いている。

その沈黙が、かえって心に沁みた。


窓の外では、午後の光がステンドグラスを通して、色とりどりの模様をテーブルに落としていた。

まるで、過去と現在が重なり合うように。


夏海はそっと涙を拭いながら、もう一口ミルクティーを飲んだ。

この町に戻ってきた意味が、少しだけ見えた気がした。



カラン——

風花の扉が開く音が、店内に響いた。

マスターがカウンター越しに目を向け、静かに言った。


「いらっしゃい…」


その視線の先にいたのは——悠真だった。


スーツ姿の彼は、少し驚いたように立ち尽くしていた。

そして、目が合った瞬間、言葉がこぼれた。


「夏海?」


夏海は、カップを持つ手を止めたまま、言葉が出なかった。

心臓が跳ねるように高鳴り、過去の記憶が一気に押し寄せる。


狭い町だから、もしかしたら——

そう思っていなかったわけではない。

でも、実際に目の前に現れると、現実感が追いつかない。


「元気そうだね」


悠真の声は、あの頃と変わらず優しかった。

夏海は、精一杯の笑顔で答えた。


「うん…元気だよ」


その笑顔の裏で、胸の奥が少しだけ痛んだ。

でも、風花の空気が二人を包み込むように、静かに時間が流れていく。


マスターは何も言わず、そっともう一杯のミルクティーを淹れ始めていた。



「舞は元気?」


夏海の声は、静かだけれどどこか張り詰めていた。

あれから舞とは一度も連絡を取っていない。

聞くつもりはなかったのに、口をついて出てしまった。


悠真は少し困ったように眉を下げて答えた。


「舞とは…あの後、別れたよ」


その言葉に、夏海の指先がわずかに震えた。

悠真は続けた。


「夏海と別れて、君が転校して…いなくなってから、気づいたんだ。

本当に好きだったのは、君だったって」


その言葉は、あまりにも遅すぎた。


「今ごろ気がついても…」


夏海は、カップをそっと置いた。


「私がどんな気持ちだったか、知りもしないくせに!!」


声が少し震えた。

風花の空気が、一瞬だけ張り詰まった。


マスターは何も言わず、静かにカウンターの奥で手を止めた。


「……マスター、ごちそうさまでした」


夏海は立ち上がり、カバンを肩にかけると、足早に店を後にした。

扉の鈴が、カランと鳴る。


外は夕暮れ。

空は茜色に染まり、風が少し冷たかった。


涙は出なかった。

でも、胸の奥がずっと痛かった。


風花の扉が閉まる音が、店内に静かに響いた。

悠真はその音を背中で受け止めるように、立ち尽くしていた。


マスターが、カウンター越しに静かに言った。


「追いかけなくて良いのかい?」


その言葉は、まるで心の奥を見透かすようだった。


悠真は、少し俯いて答えた。


「僕には…そんな資格ないですよ」


声は低く、どこか自嘲気味だった。

あの夏、夏海を傷つけたこと。

舞の告白に揺れて、夏海の気持ちを置き去りにしたこと。

そして、彼女が転校してから気づいた本当の想い——


「後悔する人生は良くないなぁ…」


マスターの言葉は、静かだけれど鋭く胸に刺さった。


悠真は、しばらく黙っていた。

そして、意を決したように店を飛び出した。


「夏海!」


夕暮れの街を走る。

風花の前の通り、駅へ続く坂道

商店街のアーケード

でも、彼女の姿はどこにもなかった。


人混みの中に、似た後ろ姿を見つけては立ち止まり、

違うと分かるたびに胸が締め付けられた。


「……遅かったのか」


立ち止まった悠真の肩に、風が吹き抜けた。

空はすっかり茜色に染まり、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。


「オレは…何をしてるんだろう…」


悠真は、風花を飛び出してからずっと夏海を探していた。

駅前、商店街、坂道——どこにも彼女の姿はなかった。


疲れた足を引きずるように、ふと目についた公園に立ち寄った。

「この公園…まだあったのか」


そこは、かつて夏海と一緒に過ごした場所だった。

放課後、ベンチに座って他愛もない話をしたり、落ち葉を拾って笑い合ったり——

あの頃の記憶が、夕暮れの風に乗って蘇る。


「夏海…」


思わず名前を呼んだその瞬間——

背後から、聞き覚えのある声がした。


「な〜に黄昏てるのよ!」


咄嗟に振り返ると、そこに——夏海がいた。


夕焼けに照らされた彼女の顔は、少し照れくさそうで、でも確かに笑っていた。

スーツ姿のまま、肩にカバンをかけて、髪が風に揺れている。


悠真は言葉を失った。

でも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


「……ずっと探してた」


その言葉に、夏海は少しだけ目を見開いて

そして、静かに微笑んだ。





第3話に続く…。








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