第36話 深淵の渓谷
エンデリオンの北門前。一行は馬車に乗り込み、魔王領へと向かう最終的な準備を整えていた。しかし、その場の空気はこれから魔王領へ向かうというよりも、不仲な家族旅行のようだった。
レイリアは、ライナスを一瞥もせず、イアン、スージーと協力して最終点検を行う。一方、ゼルリナは満面の笑みを浮かべ、ライナスに寄り添っていた。
「ライナス様、わたくし、旅の道中が華やかになるようにとドレスを着替えてきましたの! どうてす? ライナス様の好みに合ってますでしょうか?」
ゼルリナが着ているのは、以前と変わらない色合いの真っ赤なシルクのロングドレスだった。ライナスにはどこが違うのかよく分からなかったが、なんとなく前よりキラキラしているように思えた。
ミスリル山脈の寒風に、そのドレスがはためいている。
レイリアは、この光景を見て、ついに堪忍袋の緒が切れそうになった。彼女は深い深呼吸をし、感情を殺して、事務的な口調でゼルリナに話しかけた。
「ゼルリナ姫。大変恐縮ですが、ここからは完全な敵地です。その服装は戦いには不向きな上、目立ちすぎます。最低限、動きやすい服装に……」
ゼルリナはレイリアを鼻で笑った。
「まあ、レイリア様は美意識というものがおわかりにならないのね。ヒロインたるもの、いついかなる時も美しく、王子様が『この美しさを守る!』と奮い立つことが、最高の戦術ですわ! 貴女はいつも地味な服ばかりだから、ライナス様の士気が上がらないのですわよ」
「じ、地味ですって!? ライナス様の士気がいつ下がったと言うのです! それに、その派手な格好のせいで魔族のターゲットになったらどうするのですか!?」
レイリアは、ゼルリナのあまりの暴論に、もはや怒りの感情を隠すこともしなかった。
「その時は、ライナス様がわたくしの代わりに血を浴びてでも守ってくださいますわ!」
ゼルリナは当然のように言い放ち、ライナスの腕に絡みついた。ライナスはゼルリナに纏わりつかれるのは嫌ではないが、レイリアに睨まれるのは嫌だったので、「あ、その、両方とも正しい……のではないか?」と、また優柔不断な反応しかできない。
イアンは、この茶番に心底うんざりし、馬車が爆発すればすべて解決するのにと真剣に考えていた。
空気は最悪のまま。馬車はスージーの巧みな運転により、深淵の渓谷に架かる石造りの橋の手前に到着した。
「では、レイリアの作戦通り行くぞ! イアン、先頭を頼んだ! 私は殿を務める!」
ライナスの掛け声と共に、スージーの駆る馬車が猛然と橋に突入する。イアンが前方に、ライナスが後方を援護する作戦だ。
橋の中央に差し掛かると同時に、渓谷の底から翼を持つ魔物の大群が出現し、空中から波状攻撃を開始する。
イアンは冷徹に前方の魔物を斬り裂いていくが、ライナスは集中力を欠いていた。
(魔物の数が多すぎるぞ! デカい炎の一撃で一網打尽にしてやりたいが……そんなことをしては前にいるイアンにも炎が当たってしまうかもしれない!)
ライナスは繊細な炎の制御ができず、炎の魔法が威力も範囲も中途半端になってしまっている。
ライナスの攻撃が前方に向き、後方への牽制が手薄になった瞬間、馬車の側面、レイリアとゼルリナが乗っている窓際目掛けて、一匹のガーゴイルが突っ込んできた。
「キャー! ライナス様、助けて!」
ゼルリナが悲鳴を上げる。
ライナスは慌てて炎を放つが、その炎は勢いがありすぎて、キャビンの窓からはためいていたゼルリナの金色の髪を少し焦がしてしまった。
「……!」
レイリアはライナスが対応しきれていないことに気が付き、焦りを覚え始めた。
(このままでは橋を渡り切れないかもしれない……魔王との戦いまで取っておきたかったけれど……)
レイリアは、もはやライナスの援護だけでは魔物の強襲に対処しきれないと判断すると、自分の荷物からエンデリオンで購入してあった高価で強力な防御用の魔法の護符を取り出し、躊躇なくそれを起動することにした。
強烈な光の障壁が展開し、突っ込んできたガーゴイルを弾き飛ばす。
「スージー! 前進を止めないで!」
レイリアは叫ぶ。
しかし、弾かれたガーゴイルの背後から、さらに翼を持った何かが、橋の端を走る馬車へ突っ込んでくる。
その瞬間、イアンはその何かが以前自分に怪我を負わせた魔族であることに気が付いた。
(あいつは危険だ! ライナスは何をしているんだ!? 今俺が前線を離れる訳には……)
そんなことを考えていたイアンの視界に映り込んだのは、自らの命を顧みず任務を遂行しようとするレイリアの決意に満ちた横顔だった。
イアンは一瞬で踵を返し、馬車の側面へ急行する。
「邪魔だ!」
イアンはミスリル剣を閃かせ、翼の魔族に斬り込む。無理な体勢での斬り込みだったため、魔族はその剣戟をひらりとかわし、逆にイアンの左肩に長い爪での斬撃を食らわせた。
「くそっ! さっさとやられちまえ!」
イアンは傷に怯むことなくそう叫ぶと、ミスリル剣を胸に構え、ミスリル剣に銀色の光を蓄えると、渾身の力で魔族に対し銀色の剣閃を放った。その剣閃は魔族の両羽を切り落とし、魔族は橋の下に落下していくのだった。
イアンの咄嗟の迎撃と、スージーの運転で、一行はなんとか橋を渡りきり渓谷を突破することができた。魔王領側の岩場で馬車を停め、一時休息することとした。
「ライナス様、見てください! わたくしの髪が!」
ゼルリナは焦げた髪を指さし、ライナスを非難する。
「す、すまない、ゼルリナ! でも君を守るために……」
レイリアは二人を冷たく見下ろした。
「ライナス様。髪を焦がしたことなど些細なことです。それよりも、作戦遂行中の対応力不足の方が問題です。イアン様の機転がなければ今頃どうなっていたか……。イアン様に感謝してください」
「なっ!? 些細なことですって!?」
レイリアは、ゼルリナの抗議を無視し、ライナスに冷たい言葉を浴びせた。
ライナスがショックで立ち尽くす中、レイリアはすぐにイアンの方へ向き直った。
「イアン様、貴方の冷静な判断と迎撃のおかげで、なんとか橋を渡り切ることができました。ありがとうございます」
レイリアは感謝を述べると、すぐにイアンの左肩の傷に視線を移した。
「ですが、イアン様はもっと自分のことも大切にしてくださいね。今回はこの程度の傷で済んだからよかったですが、イアン様にもしものことがあっては……」
そう言いながらも、レイリアは手早くイアンの傷口に両手をかざし、優しく触れながら癒しの呪文を唱えた。イアンを見るレイリアの表情はいつもより優しく、その手つきも驚くほど丁寧で優しかった。
「……ありがとう。だが別に、俺の心配なんてしなくて、いい。俺がケガをしたのは単に俺がヘマをやらかしたからだ」
イアンは、レイリアの行動とその優しげな表情に動揺し、少し顔が熱くなるのを感じた。彼は、レイリアの優しさが、打算とは無関係の純粋な気遣いであることに気が付いた。彼はすぐに視線を逸らし、その優しさから逃れようとした。
「何を言うイアン! 皆がお前を心配するのは当然だろう。お前は大事な仲間なんだからな!」
ライナスが、やけに大きな声で口を挟む。その声には、仲間であるイアンを心配する気持ちとは別に、レイリアがイアンに優しくしていることへの、理由のわからないモヤモヤが含まれていた。
「ええ、もちろん、その通りですわ。しかし、ライナス様が対応しきれなかった穴を防ぐために、イアン様は負傷されたということはお忘れなく」
レイリアは容赦なくライナスに釘を刺すと、イアンの肩の処置を終え、さっさと荷物の整理に戻った。
ライナスは、レイリアとイアンのやり取りを見て、なぜか胸の奥がチクリとするのを感じた。
(なぜだ? イアンは仲間なのに、レイリアが彼を気遣うのを見て、私はなぜこんなに落ち着かないのだろう? ゼルリナが傷つくのを見るのとは違う、この胸騒ぎは一体……)
ライナスは、自分の感情が「イアンへの嫉妬」や「レイリアへの執着」といった複雑な感情であることを理解できず、ただ戸惑うばかりだった。
イアンはレイリアに治してもらった肩に触れ、冷たい魔王領の空気の中、わずかな温かさを感じていた。
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