第18話黒板の裏に潜む影

その朝は、いつもよりも静かだった。


校舎の上に灰色の雲が垂れこめ、陽の光は窓ガラスをかろうじて通り抜けるだけ。

廊下を歩く足音はどこかこもって聞こえ、空気そのものが息をひそめているようだった。


ケンゾーは自分の席に座り、前方の黒板をじっと見つめていた。

左手にはノートを持っているが、その最後のページは奇妙な渦模様で埋め尽くされていた。

それを描いた記憶はない。

ただ目を閉じるたびに、その形が脳裏に浮かぶのだ。

まるで、誰かが心の奥から覗き込んでいるように。


> 「この教室……なんか、変だな。」




リリィはまだ来ていなかった。

いつもなら誰より早く登校し、明るい笑顔と軽い挨拶で場の空気を和ませるのに。

しかし、彼女はもう三日も欠席している。

担任のリヴィ先生は「体調を崩しただけよ」と言った。

けれどケンゾーには、その言葉があまりにも整いすぎた嘘に聞こえた。



---


第一節 ― 変わり始めた教室 ―


チャイムが鳴ると、リヴィ・アマンダ先生が教室に入ってきた。

いつものように柔らかい笑みを浮かべ、教科書を手にしている。


だが――ケンゾーの目には、何かが違って見えた。

彼女が黒板にチョークを走らせるたび、その先端から淡い光が漏れたのだ。

それは、特定の「目」を持つ者だけが見える、魔法の残光だった。


ケンゾーは静かにシステム・ヴィジョンを起動させる。


> 【System Active:Dimensional Trace – Mode Passive】

【Detection Result:Hidden Script – Class Memory Loop 04】




黒板に書かれているのは物理の公式ではなかった。

その奥層には、目に見えぬ文字列――記号、数字、そして“名前”が刻まれていた。


その中のひとつに、ケンゾーの動きが止まる。


> User: L. Heartveil




> 「……リリィ。」




彼は長い間、黒板を見つめた。

その瞬間――リヴィの手が止まり、彼女はケンゾーを静かに見つめた。

穏やかな笑み。しかし、その奥に冷たい警告の色があった。


「ケンゾー君、何か質問でもある?」

「いえ……少し、考えごとを。」


「そう。」

彼女は再び文字を書き始めたが、その瞳だけは、なおも鋭く彼を射抜いていた。


> (――気づかれた。俺が“見た”ことを。)





---


授業が終わり、生徒たちは教室を飛び出していった。

ケンゾーだけが席に残り、ゆっくりと黒板の前へ歩み出る。


すでに書かれていた文字は消されていたが、

システム・ヴィジョンにはまだ微かな光の痕跡が残っていた。

三角形に一点が刻まれた、あの奇妙な紋章――


> 「黒い封筒の印と、同じだ……。」




彼が指で触れると、壁が微かに震え、隠された扉のように開いた。

冷たい風が吹き出し、どこかで囁く声が響く。


> 「――リナックス、遅かったわね。」




ケンゾーは後ずさりした。

それはただの幻聴ではない。

人の声だった。しかも、聞き覚えのある“誰か”の。


「……誰だ?」

応答はない。ただ、風の音とチョークが床に落ちる音だけ。


そして、黒板の上に、見えないチョークが一文を書き始めた。


> 『リリィを、旧資料室で探せ。』





---


第二節 ― 旧資料室 ―


学校の東棟の最下層にある旧資料室は、

「老朽化した」という名目で何年も前に閉鎖されていた。

だが、ケンゾーはその理由を信じていなかった。


扉の前に立ち、彼はシステムを呼び出す。


> 【Override Protocol – Phantom Access】

【Access Granted】




錠前がひとりでに回り、扉がきしみながら開く。

中は冷たく、埃っぽい空気が満ちていた。

壊れた棚、古い書類、ちらつく蛍光灯――

そして、その中心に立つひとりの少女。


リリィ。


長い髪を垂らし、少し乱れた制服。

その手には、黒い日誌を握っていた。


「……リリィ。」

安堵と困惑が混ざる声。


彼女はゆっくりと振り返り、優しく微笑んだ。

だが、その瞳の奥には、人ならざる何かが宿っていた。


「ケンゾー。……待っていたわ。」


ケンゾーが一歩踏み出した瞬間、頭の中でアラートが鳴る。


> 【Warning:Signal Distortion – Entity Not Stable】




薄い青いオーラがリリィの身体を包む。

まるで、存在そのものが揺らいでいるように。


「リリィ……お前、人間じゃないのか?」


彼女は一瞬、視線を伏せた。

そして、悲しげに微笑む。


「わからないの。……でも、もう“以前の私”ではないの。」


日誌を開くと、光を放つ文字が並んでいた。


「これ……あなたが書いたの。」


「俺が……?」


「ええ。けどそのとき、あなたは“ケンゾー”じゃなかった。

あなたは――“リナックス”だったの。」


その名が、脳内に響き渡る。


> リナックス――闇夜の堕天使。




「なぜ……覚えていない?」

リリィは静かに本を閉じ、涙をこぼしながら言った。


「この世界は、あなたのものじゃないの。

ここは……あなたの“記憶の牢獄”。」



---


第三節 ― 分かたれた真実 ―


部屋全体が揺れ始め、システムの声が頭の中に響く。


> 【Memory Recovery Protocol:42%】

【Hidden World Link Detected – SkyEarth Archive】




「……スカイアース。」

その響きに、懐かしさと痛みが混ざる。


リリィが肩に手を置いた。

「時間がないの。校舎の防壁が崩れかけてる。

システムが完全に開けば、この世界の記憶はすべて消える。」


「じゃあ、また君を……忘れるのか?」


リリィは微笑む。

「たぶん、ね。でも、覚えていて。

“幸せ”は、探し続ける限り、決して消えないって。」


「もう、失いたくない。」


「失うことでしか、気づけない幸せもあるのよ。」


床が砕け、光があふれる。


> 【System Conflict Detected】

【Administrator Override:Livy Amanda】




リリィが振り返る。

「来たわ……!」



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第四節 ― 画面の向こうの教師 ―


リヴィ・アマンダが扉の前に立っていた。

その顔には、もう優しさの欠片もない。

手には青く光る杖。


「もうやめなさい、リリィ。

あなたはプロトコルを破った。この世界は、まだ“開けてはいけない”。」


ケンゾーは彼女の前に立つ。

「どういう意味だ? 俺たちはここで生きてるんだ!」


「“生きている”と感じているだけよ。

あなたは――“そう書かれた”から。」


その言葉が胸を刺した。


「……俺は、“書かれた存在”?」


「ええ、リナックス。

この世界はあなた自身が創った“幸福実験”のシミュレーション。

だが、リリィ・ハートヴェイルという存在だけが、想定外の自我を得た。」


リリィが震える声で言った。

「じゃあ、私は……ただのデータなの?」


リヴィは答えず、杖を振る。

青い光が部屋を包み、すべてを消そうとする。


「やめろっ!」


ケンゾーの身体から黒いオーラが噴き上がる。

足元に黒い魔法陣が展開し、光を相殺する。


> 【System Authority Override:Level Lynux】

【Primary Access Restored】




「……まさか、覚醒したのね。」


ケンゾーは冷たい目で彼女を見据える。


「この世界が偽りなら――俺が“真実”を書き換える。」



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第五節 ― 砕けた光 ―


青と黒の光が激突する。

資料室はデータの欠片に分解され、崩壊していく。

ケンゾーはリリィを抱きしめた。


> 【Synchronization Incomplete】

【Lynux Protocol Awakening – 68%】




リヴィの叫びが響く。

「何をしているの! この世界が崩れるわ!」


「偽りなら、崩れればいい! 嘘のまま続くよりは!」


光が爆ぜ、世界が白く染まる。


……静寂。


やがて、床に一枚のページが落ちた。

そこには、ひとつの言葉が刻まれていた。


> 『幸福の意味は、“現実”にあるのではない。

  ――“生きていると感じさせてくれた誰か”にある。』





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翌朝。

学校は、何事もなかったかのように戻っていた。

生徒たちは笑い、冗談を言い合っている。


だが、誰一人として「リリィ・ハートヴェイル」という名を知らなかった。


ケンゾーの机の上に、白い花と黒い封筒が置かれていた。

封筒には、ただ一言――


> 『真夜中の観測所(Midnight Observatory)』




ケンゾーはしばらく見つめ、そして静かに微笑んだ。


> 「……リリィ。必ず見つけるよ。

  光の向こう側で、また会えるその日まで。」





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