第17話もう同じ空ではない

その日の空は、どこかおかしかった。


色が違うわけでも、雲が異様な形をしているわけでもない。

ただ――その空の下にある「世界」が、まるで現実ではないように感じられたのだ。

時間が止まり、動いているのは俺だけ。そんな錯覚さえ覚えるほどに。


俺――ナウファル・ケンゾウは、放課後の教室で窓の外をぼんやりと眺めていた。

風がカーテンを揺らし、花壇からはほのかに花の香りが漂ってくる。

だが、いつも響いているはずの笑い声はどこにもない。

時計の針の音だけが、奇妙に速くなったり遅くなったりを繰り返していた。


リリーが学校に来なくなって、もう三日目だ。

体調が悪いと聞かされた。

だが――その言い方のどこかに、俺は違和感を覚えていた。



---


最初の日は、ただの欠席だと思っていた。

二日目、教室の空気が少し変わった。

三日目――俺は、世界そのものが歪み始めていることに気づいた。


ペンケースを開けたとき、見覚えのない紙切れが一枚入っていた。

そこには、たった一行の文字。


> 「空がもう一度色を変える時――自分の影を信じてはいけない。」




最初は悪戯だと思った。だが、筆跡を見た瞬間、息が止まった。

――これは、リリーの字だ。

彼女の「L」はいつも少し上向きで、「y」の尻尾が長く伸びている。

間違えるはずがない。


だが、彼女はこの紙をいつ、どうやって俺のペンケースに?



---


その日の夕方、俺は校舎裏の庭園へ向かった。

リリーとよく話した、あの場所へ。


枯葉が舞い、空は橙から黄金色に染まっていく。

ベンチに腰を下ろすと、冷たい鉄の感触が掌に伝わった。


最後にここで話した日のことを思い出す。


> 「ケンゾウ、もし私が学校に来られなくなったら……心配しないでね。」

「なんだよそれ、まるで遠くに行くみたいな言い方だな。」

「……もしかしたら、本当にそうかもしれない。でも、あなたが思う“遠く”とは違うの。」




その時は笑い飛ばした。

だが今、あの言葉一つひとつが意味を帯びて蘇る。


俺は紙を握りしめ、空を見上げた。

オレンジ色の光が灰色へと変わり――空に、細い「ひび」が走った。


それはガラスが割れる前のような線。

その中で、淡い青の光が脈打っていた。まるで、生き物の呼吸のように。



---


「……なんだ、あれは。」


目を凝らした瞬間、ひびは消えた。

だが、違和感は消えない。

鳥が空で止まり、葉が落ちずに宙に浮いたまま静止している。


世界そのものが、止まった。


「……時が、止まってる?」


その時、頭の中で声がした。

外からではない。――内側から響いてくる。


> [システム起動中……]

[ユーザーデータ検索中……]

[接続不安定。]




「な、なんだ今の声……?」


俺は一歩、二歩と後ずさる。

動かない世界の中で、唯一動いているものがあった。


――俺の「影」。


地面に映る影が、わずかに震えたかと思うと、ゆっくりと顔を上げた。


そして――微笑んだ。


それは、リリーの笑みだった。

優しくて、少しだけ哀しいあの笑顔。



---


「……やめろ。」


喉が乾いて声が出ない。

空の裂け目から青い光が再び溢れ出し、今度は世界全体を包み込むほどに広がった。


> 「ケンゾウ……聞こえる?」




その声は――間違いなくリリーのものだった。


「リリー!? どこだ!」


俺が叫ぶと、世界がひび割れ、白い光が視界を飲み込んだ。



---


目を開けると、そこは教室だった。


いつも通りの音。

いつも通りの風景。

先生が黒板に文字を書き、クラスメイトが談笑している。


……さっきのは、夢か?


頭を押さえながら辺りを見回す。

窓の外には、穏やかな青空。

――ひびも、光もない。


だが。


リリーの席は、空っぽだった。


「先生、リリーは今日も休みですか?」


チョークを持つ手が止まり、先生が振り向いた。


「リリー? 誰のことだい?」


心臓が一瞬止まった。


「リリー・アマンダですよ。僕の理科のペアの……」


「そんな生徒、うちのクラスにはいないよ。」


周囲の生徒たちも、首をかしげる。

まるで本当に――最初から存在しなかったかのように。


ポケットを探る。あの紙を取り出そうとして――


……ない。


消えていた。



---


放課後。

静まり返った廊下を歩きながら、俺は掲示板の前で立ち止まった。

出席名簿を確認する。

そこにも――「リリー・アマンダ」の名前はなかった。


「……嘘だろ。」


その時、足元で何かが光った。

拾い上げると、そこには一通の白い封筒。


青いインクで書かれていた。


> 「ケンゾウへ。

空が二度目に色を変えるその時まで、開けないで。」




――リリーの字だった。


封筒を握りしめる。

夕焼けが窓を赤く染める。

あの時と同じ空の色――だけど、もう素直に「綺麗だ」とは思えなかった。



---


その夜、俺は眠れなかった。

封筒は机の上、ランプの下に置いたまま。


何度も開けようとしたが、胸の奥で何かが囁く。

「まだだ」と。


> 「空が二度目に色を変えるその時まで――」




……それはいつなんだ?


窓の外には星空。

だが、その中に、かすかな青い線が見えた。

微かに、脈打つように光っている。


俺はペンを取り、日記に書きつけた。


> 「リリー。君は今どこにいる?

君のいない世界は、もう違う世界みたいだ。

空は変わったのに、俺だけが取り残されたみたいだ。」




ペン先を置いた瞬間――あの声が再び響いた。


> [システム同期中:25%]

[ユーザー:ナウファル・ケンゾウを確認。]

[外界との接続を初期化中。]




スマホの画面が青く光り、一文が浮かび上がった。


> 「すべてを思い出す覚悟は、できているか?」




俺は息を呑んだ。

そしてその瞬間――心の底から悟った。


> もう、この世界は“同じ空”の下ではない。





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