第1部:ハルモニアの奏鳴曲(ソナタ)
第1章 旅立ち
ホワイトクリーク村の復興は、驚くべき速さで進んだ。
リラが「調律」したあの日を境に、村人たちの心は奇妙なほど一つにまとまっていた。
誰もが互いを思いやり、自分のことよりも隣人のために汗を流した。
その光景は、まるで熟練の指揮者が率いるオーケストラのようだと、アレクは密かに舌を巻いた。
そして、その中心にはいつもリラがいた。
彼女はもう、人混みを恐れて丘の上に逃げることはなかった。
代わりに、復興作業の輪の中に立ち、人々の心の音に耳を澄ませていた。
資材の分配で揉めそうになれば、そっと間に入って双方の言い分を「翻訳」し、疲れ果てた者の心に寄り添い、その疲労の重低音を、希望の軽やかなピッコロの音色へと変えていった。
村人たちは、そんな彼女を「奇跡の娘」と呼び、畏敬の念を込めて接するようになった。しかし、リラ自身は、自分の力が何なのか、まだ理解できずにいた。ただ、聞こえてくる音楽に身を任せ、最も美しい和音を奏でる手助けをしているに過ぎなかった。
そんなある日、一人の使者が村を訪れた。立派な馬に乗り、胸に鷲の紋章を掲げたその男は、この地を治める領主、バルトーク辺境伯からの書状を携えていた。
「『奇跡の娘』リラ・シェフィールド殿に、我が主、バルトーク辺境伯が是非一度お会いしたいとのこと。至急、居城のグラーフェン城までお越しいただきたい」
使者の心の音は、傲慢なホルンと、辺境の村を見下すスネアドラムの連打だった。村人たちが、不安と期待の入り混じったハープシコードのような囁きを交わす。
その夜、リラとアレクは、村の小さな教会で向き合っていた。
「……どうして、領主様が私に?」
「お前の噂が耳に入ったんだろう。鉄砲水で半壊した村が、たった一月で立ち直った。その中心に、不思議な力を持つ少女がいる、と。領主様も、何か問題を抱えているのかもしれん」
アレクは、祭壇の蝋燭の火を見つめながら言った。彼の心のチェロは、普段の皮肉な響きを潜め、未知への警戒と、リラへの深い懸念を奏でていた。
「行くべきではない、と?」
「俺個人の意見を言えば、行かない方がいい。貴族というのは、得体の知れないものを利用するか、排除するか、その二つしか考えない連中だ。お前の力は、彼らにとってあまりに異質すぎる」
アレク自身の言葉が、彼が貴族の世界で経験してきた苦い不協和音を物語っていた。
リラは、自分の両手を見つめた。この数週間で、彼女はこの力の使い方を少しだけ学んだ。それは、人を操る魔法ではない。相手の心の音を聞き、理解し、寄り添うことで、調和への道を示す「対話」の力だ。
「……行きます」
リラは、顔を上げた。その瞳には、以前の怯えはもうなかった。
「もし、領主様が何か問題を抱えているのなら、この力が役に立つかもしれません。それに……私、知りたいんです。この力が何なのか。私以外にも、同じような人がいるのか。この村にいただけでは、何も分かりません」
その決意に満ちたソプラノの旋律を聞き、アレクは深いため息をついた。彼の心のチェロが、諦めと、そして新たな決意の力強い和音を奏でる。
「……分かった。だが、一つだけ条件がある。俺も一緒に行く」
「えっ、でも……」
「お前一人の護衛では、任務とは言えん。だが、『辺境伯閣下への重要証人の護送』という名目なら、俺がここを離れる口実が立つ。それに……」
アレクは、リラの目を真っ直ぐに見つめた。
「お前を一人で行かせて、何をしでかすか分かったものじゃないからな。お目付け役だ」
そのぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、彼の心の音は、リラを守ろうとする強い意志のフォルティッシモ(きわめて強く)を奏でていた。
三日後、リラは村人たちに別れを告げ、アレクと共に旅立った。村人たちは誰もが、彼女の身を案じ、そして彼女の未来を祝福する、温かいハーモニーを奏でていた。それは、リラが生まれて初めて、自らの手で調律した、故郷のシンフォニーだった。
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