第2章 出会い

 グラーフェン城へと続く街道は、リディア王国の豊かな自然を映し出していた。鬱蒼とした森を抜け、広大な麦畑が広がる。しかし、リラの耳には、その美しい風景とは裏腹の、様々な不協和音が聞こえていた。


道端で物乞いをする老人の、諦めきったヴィオラの音色。すれ違う荷馬車の御者の、生活への不安を奏でるファゴットの響き。誰もが、それぞれの悩みを抱え、心の雑音を撒き散らしながら生きている。


「……気分が悪いのか?」


馬上で青ざめているリラに、隣を並走するアレクが声をかけた。


「いえ……ただ、色々な音が聞こえすぎて……」

「音?」

「……心の、音です」


リラは、自分の能力について、アレクに正直に話すことにした。臨死体験で目覚めたこと。人々の感情が音楽のように聞こえること。そして、その調和を助けることができること。


アレクは、眉間に深い皺を寄せ、黙ってリラの話を聞いていた。常識では到底信じがたい話だ。だが、彼はホワイトクリーク村で起きた奇跡を目の当たりにしている。


「……つまり、お前には俺の心も『聞こえて』いるのか。今、俺が何を考えているかも」

「はい。アレクさんの音は、チェロみたいです。今は……私の話を信じるべきか、すごく迷っている……そんな響きがします」


アレクは、ぐっと言葉に詰まった。彼の心のチェロが、驚きと当惑で大きく揺れる。


「……厄介なことこの上ないな」


彼はそれだけ言うと、しばらく押し黙ってしまった。


その日の夕暮れ、二人が街道沿いの寂れた宿場町に着いた時、事件は起きた。町の入り口で、数人の男たちが一人の男を囲み、殴る蹴るの暴行を加えていたのだ。


「金を出せ! さもないと、お前の商品は全部俺たちのものだ!」


男たちの心の音は、暴力的な欲望に満ちた、下品なブラスバンドのようだった。囲まれている男の心は、恐怖と屈辱のパーカッションが乱れ打っている。


「やめなさい!」


リラが思わず叫ぶ。アレクが舌打ちし、剣の柄に手をかけた。


「関わるな、リラ。ゴロツキ相手だ」

「でも!」


リラが駆け寄ろうとした、その時。


「はいはい、そこまで! 皆さん、血の気が多いのは結構ですが、その辺でやめておきませんかねぇ?」


陽気で、どこか飄々とした声が響いた。見ると、派手な刺繍の入った服を着た、人の良さそうな笑顔の男が、いつの間にかゴロツキたちと被害者の間に立っていた。


「なんだてめぇは!」

「これはこれは、ご挨拶が遅れました。わたくし、こういう者でございます」


男は芝居がかった仕草で一枚の名刺を差し出した。


『旅の何でも屋 ジュリアン・オーブライト』


「何でも屋だと? 消えな、こいつは俺たちの獲物だ」

「まあまあ、そうおっしゃらずに。皆さん、お腹が空いているんでしょう? この先の酒場で、私がお腹いっぱいご馳走しますよ。それで、このお兄さんを見逃してはいただけませんか?」


ジュリアンと名乗った男の心の音は、リラが今まで聞いたこともない、不思議な響きをしていた。一攫千金を夢見る陽気なトランペット。しかし、その裏では常に状況を計算し、損得を弾き出す算盤のような、細かく正確なリズムが刻まれている。そして、そのさらに奥底には、何かに追われるような、怯えたティンパニの音が微かに響いていた。


「酒だと? 馬鹿にするな!」

「おっと、そう来ますか。では、仕方ない……」


ジュリアンは、懐から小さな革袋を取り出した。チャリン、と硬貨の音がする。


「これで、手を打っていただけませんかね? 皆さんの今夜の稼ぎ分くらいは、あると思いますが」


ゴロツキたちのリーダー格の男が、革袋をひったくるように受け取り、中身を確かめる。彼の心のブラスバンドが、一瞬、欲望のファンファーレを奏でた。


「……ふん、分かった。今日はこれで勘弁してやらぁ」


男たちは、捨て台詞を残して去っていった。


「いやはや、物騒な世の中になったもんですな。お怪我は?」


ジュリアンは、倒れていた男に手を貸し、服の埃を払ってやる。


「あ、ありがとうございます……このご恩は……」

「いえいえ! お代は見ての通り、彼らに支払いましたんで! それより、その荷車の商品、少し拝見しても? おお、これは上等なリディア織! 実は私、こういうのを専門に扱っておりましてね……」


あっという間に商談を始めているジュリアンを、リラとアレクは呆然と見ていた。


「……何なんだ、あいつは」

「……すごい人、です」


リラには聞こえていた。ジュリアンは、ゴロツキたちの暴力的な心の音を、金という分かりやすい「欲望の音」で上書きし、調律してしまったのだ。それは、リラのやり方とは全く違う、あまりに現実的で、しかし見事な「調律」だった。


その夜、宿屋の食堂で、三人はテーブルを囲んでいた。


「ジュリアンさん、と仰いましたね。助けていただいて、ありがとうございました」

「いやいや、お嬢さん。見ての通り、あれも商売のうちですよ。あの織物を安く買い叩くための、先行投資ってやつです」


ジュリアンは、エールを飲み干し、豪快に笑った。


「しかし、お二人こそ、こんな田舎には不似合いなご様子。騎士様とそのお連れときた。どちらへ?」

「……グラーフェン城だ」


アレクが短く答える。その瞬間、ジュリアンの心のトランペットが、ピタリと鳴り止んだ。算盤のリズムだけが、高速で回転する。


「へぇ、辺境伯閣下のところに。それはまた、大事なご用向きで」


ジュリアンは、探るような目でリラを見た。リラは、彼の心の音が、自分という「商品」の価値を査定しているのを感じた。


「……あなたも、何か問題を抱えているんですね」


リラが静かに言うと、ジュリアンの笑顔が、わずかに凍りついた。


「……はは、人違いでしょう。私みたいな能天気な男に、悩みなんてあるわけが……」

「あります。あなたは、何かに追われている。とても、怖いものに」


リラの純粋な瞳が、ジュリアンの心の奥底にある、怯えたティンパニの音を正確に捉える。ジュリアンの心の音楽が、完全に沈黙した。


「……お嬢さん、あんた、一体何者だ?」


その問いに答えたのは、アレクだった。


「こいつは、リラ。人の心の『音』が聞こえる、調律師だそうだ」


ジュリアンの目が、カッと見開かれた。

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