『世界調律師と不響和音の乙女』
名雲
序章 不響和音の目覚め
亜麻色の髪を揺らす風は、いつもより少し湿った土の匂いを運んでいた。
リラ・シェフィールドは、丘の上に一人座り、眼下に広がる故郷の村、ホワイトクリークを眺めていた。屋根の煉瓦は色褪せ、家々の壁には蔦が絡まっている。煙突から立ち上る煙は、どれも頼りなげに空へ溶けていく。平和で、穏やかで、そして昨日と何も変わらない光景。それがリラの世界の全てだった。
十八歳になった今も、彼女はこの村から出たことがない。いや、出られなかった、と言う方が正しい。
村の広場は、リラにとって耐え難い場所だった。人々が集い、笑い、語り合う。その喧騒が、まるで無数の針のように彼女の心を刺すのだ。誰かが怒れば、その熱が自分の肌を焼くように感じられ、誰かが泣けば、その悲しみが自分の喉を締め付ける。他人の感情の波に、まるで木の葉のように翻弄されてしまう。だからリラは、いつも人知れず、この丘の上へと逃げてくるのだった。
「……また、ここにいたのか」
背後からかけられた声に、リラの肩が小さく跳ねた。振り返ると、警備隊のくたびれた制服を着た青年、アレクサンダー・フォン・ヴァレンシュタインが、呆れたような顔で立っていた。腰に下げた剣の柄を、癖のように指でなぞっている。
「アレクさん……」
「隊長、と呼べといつも言っているだろう」
彼はそう言いながらも、特に気にした風もなくリラの隣に腰を下ろした。その仕草には、貴族出身とは思えない無造作さがあった。彼がこの辺境の村に左遷されてきて、もう半年になる。
「別に、サボっているわけじゃありません。ちょっと、風に当たって……」
「風に当たるのが好きな奴は、市場の喧騒も好きなはずだがな。お前は違うらしい」
アレクの言葉には棘があったが、その声の奥に心配の色が滲んでいるのを、リラは感じ取っていた。彼は、リラが人混みを避ける理由を知らない。ただ、人付き合いが極端に苦手な、内気な少女だと思っているだけだ。
「……苦手なんです。たくさんの人がいると、息が詰まりそうで」
「ふん。贅沢な悩みだ」
アレクは空を見上げた。その横顔に浮かぶのは、諦めと、微かな焦燥。彼もまた、この退屈な村で息が詰まっている一人なのだと、リラは思った。首都の近衛騎士団にいたという彼が、なぜこんな場所にいるのか。村の誰もが噂したが、誰も真実を知らなかった。
その時だった。空を覆っていた灰色の雲が、にわかにその厚みを増し、生暖かい風が二人の頬を強く撫でた。遠くの山の方で、空が鈍く光る。
「……まずいな。降りそうだ。村に戻るぞ、リラ」
アレクが立ち上がったのと、地面を叩く大粒の雨が降り始めたのは、ほぼ同時だった。あっという間に視界は白く煙り、地面を叩く雨音は、全ての音をかき消す轟音へと変わった。
「こっちだ! 小屋がある!」
アレクがリラの手を掴み、走り出す。彼の大きな手は、驚くほど熱かった。雨に打たれながら、二人は丘の中腹にある古い木こり小屋へと駆け込んだ。
小屋の中は、かび臭く、ひんやりとしていた。雨音は、ブリキの屋根を叩き、狂ったドラムのように鳴り響いている。リラは、濡れた髪を絞りながら、不安げに外を見つめた。ホワイトクリーク(白い小川)という村の名前の由来になった小川が、みるみるうちに濁流へと姿を変えていく。
「ひどい雨……こんなの、初めて……」
「ああ。山で何かあったのかもしれない」
アレクは、剣の柄に手をかけ、鋭い目で濁流を見つめていた。その視線の先で、ごう、という地鳴りのような音が響いた。山肌の一部が、ゆっくりと崩れ始める。木々がなぎ倒され、巨大な土砂と水が一体となって、津波のように村へと迫っていた。
「鉄砲水だ! 村が……!」
リラの悲鳴は、轟音にかき消された。アレクが何かを叫び、彼女を突き飛ばす。その瞬間、小屋の壁が内側から破裂したかのような衝撃と共に、濁流が二人を飲み込んだ。
冷たい。痛い。息ができない。
リラは、荒れ狂う流れの中で、木の枝や瓦礫に身体を打ち付けられた。意識が遠のいていく。薄れゆく視界の端で、自分を助けようと手を伸ばすアレクの姿が見えた気がした。
(……死ぬんだ)
そう思った瞬間、不思議なことが起きた。
全ての音が、消えた。
あれほど激しかった濁流の轟音も、身体を打つ痛みも、何もかもが遠ざかっていく。完全な静寂。生まれて初めて体験する、絶対的な無音の世界。
そして、その静寂の向こうから、一つの音が聞こえてきた。
――ポーン……
澄み切った、水晶を弾いたような、美しい音。
その音が一つ響くと、呼応するように、また一つ、別の音が響く。高く、低く、強く、弱く。無数の音が、それぞれに異なる音色とリズムで、しかし、不思議な調和を保ちながら、彼女の意識の中に流れ込んできた。
それは、音楽だった。
今まで聞いたこともない、壮大で、複雑で、そして美しいシンフォニー。
悲しみのヴィオラ。喜びのフルート。怒りのトランペット。そして、その全てを支える、生命そのもののような、温かいコントラバスの響き。
(ああ、きれい……)
これが、世界の本当の音なのだと、リラは直感的に理解した。今まで自分が聞いていたのは、この美しい音楽が、互いに干渉し合って生まれた不協和音のノイズに過ぎなかったのだ。
意識が完全に途切れる直前、彼女は一つの、ひときわ力強く、しかし深い悲しみを湛えたチェロの音色を聞いた。それは、濁流の中で自分を探し求める、アレクの心の音だった。
次にリラが目を覚ました時、彼女は村の小さな診療所のベッドの上にいた。窓から差し込む光が、やけに眩しい。
「……気がついたか」
ベッドの脇で腕を組んでいたアレクが、安堵の息を漏らした。彼の額には包帯が巻かれ、制服は泥だらけのままだった。
「アレクさん……村は……?」
「……半壊だ。だが、死人は出ていない。お前が三日も眠っている間に、皆でなんとかした」
三日。そんなに眠っていたのか。リラは、ゆっくりと身体を起こした。不思議なことに、あれほどの濁流に飲まれたというのに、身体に痛みはほとんどなかった。
その時、リラは気づいた。
聞こえるのだ。あの、美しい音楽が。
アレクの心の音。それは、安堵のホルンと、疲労のティンパニ、そしてリラを気遣う優しいヴァイオリンの旋律が重なり合った、複雑な和音だった。
「どうした? まだどこか痛むのか?」
心配そうに顔を覗き込むアレク。リラは、彼の言葉と、彼の心の音が、寸分違わず一致していることに驚いた。
診療所のドアが開き、村長の奥さんがお盆を持って入ってきた。
「まあ、リラちゃん! よかった、目が覚めたのね!」
彼女の心の音は、ひまわりのように明るいソプラノだった。しかし、その明るいメロディの裏で、壊れた家をどうやって直そうかという、不安のマイナーコードが微かに響いている。
世界が、変わってしまった。
リラは、流れ込んでくる人々の心の音楽に、めまいを覚えた。これは、祝福なのだろうか。それとも、呪いなのだろうか。
数日後、村の広場で、復興のための話し合いが行われていた。資材が足りない。人手が足りない。壊れた水路を巡って、上流の家と下流の家が言い争いを始めていた。
「うちの畑に先に水を回せ!」
「何を言うか! こっちの家の方が被害が大きかったんだぞ!」
怒りのトロンボーンと、不満のチューバが、耳障りな不協和音を奏でる。リラは、頭を押さえてうずくまりそうになった。その時だった。
言い争う二人の男。一人は、頑固で不器用な、しかし家族を深く愛するコントラバスの音。もう一人は、焦りと不安で金切り声のようになっているが、根は村の皆を思うクラリネットの音。
二つの音は、互いに自分の正しさを主張し、ぶつかり合っているだけ。でも、根底にある「村をなんとかしたい」という低音は、同じなのだ。
リラは、ふらつきながら二人の間に歩み出た。
「あの……」
彼女が声を出すと、不思議なことが起きた。リラの声に、彼女自身の心の音――純粋な祈りのようなハープの音色――が乗ったのだ。
「マクドナルドさん……あなたの畑も大事です。でも、もし今、ヘンダーソンさんの家の土台を直すのを手伝ってあげたら、きっと、あなたの畑に水を引くのを、村の皆が手伝ってくれます。ヘンダーソンさんも……今、一番大変なのは分かります。でも、マクドナルドさんのライ麦が枯れたら、冬に皆で食べるパンがなくなってしまいます」
リラの言葉は、特別なことではなかった。だが、彼女の声に乗ったハープの音色が、二人の荒れ狂う心の音に、そっと寄り添い、共鳴した。頑固なコントラバスの弦を優しく撫で、金切り声のクラリネットを穏やかに包み込むように。
すると、二人の男の心の不協和音が、少しずつ和らいでいくのが、リラにははっきりと聞こえた。怒りのトロンボーンは鳴り止み、代わりに、戸惑いと、内省のオーボエが静かに奏でられ始めた。
「……むぅ。……確かに、そうかもしれん」
「……すまなかった。少し、頭に血が上っていた」
二人は、ばつが悪そうに顔を見合わせ、やがて、どちらからともなく手を差し出した。
広場を支配していた不協和音が、穏やかな協和音へと変わっていく。その奇跡のような光景を、リラは呆然と見つめていた。
遠くからその様子を見ていたアレクは、信じられないものを見る目で、リラを、そして和解した村人たちを交互に見つめていた。彼には音楽は聞こえない。だが、さっきまで険悪だった空気が、一人の少女の一言で、嘘のように変わったことだけは理解できた。
リラは、自分の両手を見つめた。
この力は、呪いなどではないのかもしれない。
もし、この力で、もっと多くの人の、もっと大きな不協和音を調律できるとしたら……。
リラの心に、小さな、しかし確かな希望の旋律が生まれ始めた。それは、これから始まる壮大なシンフォニーの、ほんの最初の第一音に過ぎなかった。
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本作を読んでいただき、ありがとうございます。
私の初執筆・初投稿となる本作ですが、完結まで書き上げています。
毎日1〜2話ずつ投稿しますので、お付き合いいただければ幸いです。
面白いと感じてもらえましたら、フォローやレビューなどの応援を、よろしくお願いします。
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