第5章
第37話 夜明けと、帰り道。
ながい、ながい夜が明け、なにひとつ間違いなく朝がやってきたように、待ちわびた始発の電車は当然のようにガラガラだった。
リンゴちゃんと、俺とで、クッキーを挟むようにして座った。濡れた靴下はとうぶん乾きそうになくて、スニーカー、洗うのめんどくせぇ、なんて思う。
身体中が泥のようにクッションに吸い込まれていくのに、頭だけはしぶとく働いていて、何か、世界の運命を決する大きな戦いを生き抜いて、命からがら帰ってきたような、そんな浮ついた感覚がはなれなかった。
けれど電車が動き出し、窓の向こう、大都会に切り立つビルが次々と現れ、そのどれもが朝日を浴びてまっしろに輝くのを見ていると、道端でぺしゃんこに踏み潰されたセミを見つけたような、からんとした気分にもなって、おかしかった。
となりに座っているクッキーは、夜明け前から長らく口を開いていない。
……改めて、不思議に思ったことがある。
どうして彼女は、ファンタジーを信じたのだろう。
彼女は探した。たった一人で、たくさんの町を訪れて、その目でその足で、夢を追うように世界を尋ねまわった。心の暗い部分が破け、ぼたぼたと落ちてくるのをその都度手でおさえながらも、前に進むためなら笑って空を仰いだ。自分が好きだと、ここにいていいんだと、そう信じるためならどこへだって、海を歩いて渡ってさえ、旅をつづけた。
そんな彼女の探し物を、ファンタジーと、一括りにするのは少し違うのかもしれない。
クッキーにとって、その長い旅路はときに、魂にもっとも近いところにある大切なものを秤にかけるような深刻な試練であって。
けれど同時に、たくさんの出会いに心を躍らせる楽しさに満ちた冒険であったことも、きっと事実であったはずで。
どうしようもない矛盾を抱えながらも、それでも生きていこうと、立派な足跡を刻んでいたはずで……。
こんなことを、俺は勝手に想像する。
鷲宮久祈は、ずっと、祈っていたのかもしれない。
自分という存在がどんなに頼りなくても、わずかなものしか持ち合わせていなくても、誰からも見放された悪者のように思えても、それでも祈りつづけたのかもしれない──。
なんて、勝手に考えて。
本当に、すげぇやつだなって、思った。
こんな小さな身体で、大きな荷物を背負って、終わりの見えない旅をすることがどれほど大変なことなのか、俺にはわからない。
というか考えてみれば。まだまだわからないことばかりだ。旅を始めるにいたった事情も、話の端々に出てきたあの部屋とか、あの人のことも。救えないファッションセンスも常識や趣味が偏ってるわけも、これからどうなっていくのかも、わからない。
今だって、帽子を深くかぶったまま、なにを考えているのか、わかりやしなくて。
だけど、確かに、となりにいて。
……まあ、なんとかなるか。
眠気を払うように軽い笑みをこぼし、俺は前を向く。
町はすっかり明るくなっていて、相変わらず、車窓の景色は早送りした動画のようにめまぐるしい。
鷲宮久祈が、これまでどんな道のりを歩いてきたのか、俺は知らない。
けれど、その途方もない行き道に比べたら、これはきっと、あっけない帰り道なんだろう。
そのことだけは、わかる気がした。
海浜幕張で電車を降りると、駅前の広場はすでに人々の動きで波立っていた。
まだ感じられる早朝のぼうっとした空気を肩で切り、スーツやコートや学生服を着た多くの人々が、シンクに流れる水のように駅の階段に吸い込まれていく。バスロータリーの人々はきれいな一列となって、首を曲げてスマホをのぞいている。
そうやって動き出していく人々や生活や町を、邪魔にならないところからいつまでも眺めていられるような気がしたけど、迎えがきた。
悲壮的なまでに白い顔をゆがめた春日部さんだった。
ロータリーのすみに黒い車が見えた。春日部さんもまた黒いスーツを着ていた。
しばらくの間、クッキーは春日部さんに抱き寄せられ、帽子がつぶれるがままに胸の中にうもれていた。
それが終わって、三人、口を動かせたのは春日部さんだけだった。ありがとうございます、葛和田さんからの連絡がなければ──。
俺の口からは短い返事しか出なかった。そんな、大丈夫です、一人で帰ります。クッキーはずっと黙っていた。車寄せに移動した。
春日部さんがキーを手にすると、ピッピと音がした。クッキーはされるがままだった。春日部さんに促され、タクシーに荷物を預けるように、背中のリンゴちゃんがトランクにしまわれる。それから後部座席のドアが開き、乗り込もうとしたところで、止まった。
その様子を見て、春日部さんは先に運転席に入った。俺とミラー越しに目が合うと、メイドさんはいつもの笑みを控えめに返した。
クッキーは道路の縁石を見下ろすように立っていた。
……俺は、言った。
「ごめん。春日部さんと会ったこと、ずっと黙ってて」
クッキーは俯いたままでいる。
「それで、他にも色々と、話したいことはあるけど」
反応はない。
「とりあえず、今は……。なあ、クッキー」
帽子に表情を隠したまま、頑なに返事をしない。
「わかった。そんなに喋りたくないならそうすりゃいい。……ただし」
黙りこくったその頭から、俺は黄色い帽子を取り去った。
「こいつは人質だ。返してほしけりゃ……自分で取りにこい。明日中にな」
ドアが閉まった。
黒い車は動き出し、ロータリーをスムーズに回って、信号につかまることなく交差点の向こうへと走り去っていった。
「……絶対に、取りにこいよ」
そうして別れて、疲れて痛くて濡れて眠くて腹へって、HPゲージが真っ赤どころか毒々しい紫まで下がりきった自分を引きずって。
シャワー浴びてぶっ倒れたと思えばもう夜で、珍しくアラームをかけたのに今度はちっとも寝れなくて。そのまま朝がきて、わかっちゃいたけどひでぇ筋肉痛で。
でも、出かけないわけにいかなくて。
地球が砕けちって、幾星霜もの輪廻をへて、それから元通りに再生していくまでの全てを遥かなる銀河の終着から見届けた──
なんてアホみたいな感傷にひたった俺のことを笑い飛ばすかのように、町は呆れるくらい変わってなくて。寂れた商店街の人はまばらで、あの店のシャッターは今日も閉まったままで、たった数日で変わることなんてまるきりなくて。
見上げた秋の空は、憎たらしいほど青く、雲ひとつなく澄んでいて。
やっぱり俺は、いつも通り、ベンチの左側に座って。
そして今も、あいつの帽子はここにある。
この手が握っている。
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