第2話 飲み友の頼み

 夜。都心の喧噪から少し外れた住宅街の路地に、ふわりと赤い光が揺れていた。古びた木の軒先に吊るされた赤提灯が、薄い風に揺れるたびに柔らかな色を路面に落とす。


 そこだけ時間の流れがゆるやかになったような、町の片隅の匂いがする。車のヘッドライトや自販機の青白い光と混じり合い、夜の空気を少しだけ温めていた。


 居酒屋「ゐろは」。暖簾は長年の風雪で色あせ、文字の縁取りが薄れている。だがそのくたびれた佇まいが、むしろ安心感を与える。


 引き戸をガラガラと音を鳴らしながら中に入ると、まず鼻をくすぐるのが焼き鳥の煙とタレの焦げる匂いだ。炭火の熱と油の香り、客たちの笑い声、箸先が器に触れる小さな音、換気扇の低いうなり──音と匂いのレイヤーが目の前の空間を満たしている。


 ここは俺たちの“非戦闘区域”。武器も腕章も忘れて、ただ疲れを解くための場所だ。


「いらっしゃい、須藤さん。ハデさん、奥で飲んでますよ」


 カウンターの女将がひときわ明るく言った。いつもの席へ向かう途中、俺は軽く会釈をする。小上がりの座敷に座れば、畳の端に置かれた灰皿と、使い込まれた湯呑みが目に入る。


 そこに座っていたのは、背筋を丸くして少し出来上がっていた外国人がいた。彼こそがハデさんことハドリアン・ヘイドが手を振って須藤にこっちだと流暢な日本語で話している。


 ハデさんは四十代後半ほど、彫りの深い顔立ちに少し白髪が混じり始めた短髪。肩書きは大手ダンジョン装備アイテム関連会社 「Erebus Armamentsエレバス·アーマメンツ」のCEOという華々しいものだが、ここにいるのはどこにでもいる気の良いオジサンにしか見えない。


 ジャケットを脱ぎ、白シャツの袖を肘までまくり、もうすでにビールを半分ほど空けていた。鼻筋が通った横顔に遠い国の血を感じるが、焼き鳥をほおばる姿はすっかりここの常連だ。


「よぉ、誠司くん。待ってたよ」


「そんなかしこまるなよ。こっちは汗だくで地下の罠解除してたってのに」


「それはそれ、これはこれ。まずは一杯」


 女将に頼んでいた俺の分の生ビールが置かれる。キンキンに冷えたジョッキが手にしっくりくる。


「乾杯」


 ハデとグラスを軽く打ち鳴らす。泡の向こうに、ふといつもより優しい表情が浮かんでいた。


「この唐揚げ、最高だよ。外はカリカリ、中はジュワッと……誠司くん、君も食べなきゃ損するよ」


「俺はまず鳥串だな。このレバーのとろみが最高なんだよな」


 二人して酒とつまみに舌鼓を打ちながら、他愛もない会話を続ける。上司でも部下でも、戦友でもない。こうして肩の力を抜いて語らえる相手というのは、実はそう多くない。羽出もそれを分かっているから、こんな場を作るんだろう。


「そうそう、今日はちょっと頼みがあってさ」


 酒が回ってきたのか、ハデが少し声を落として切り出した。最初はいつも通りの冗談かと思ったが、その目はどこか真剣だった。


「君の寮、ペット可だったよね?」


「ん?まあ、テイマー職のやつらもいるし、規則上は問題ないけど……なんだよ、急に」


 ハデは懐からスマートフォンを取り出した。指で数度画面を操作すると、そこに映し出されたのは毛並みの金色に輝く子犬の写真だった。


 つぶらな瞳がこちらを見つめている。画面越しでも、柔らかさと温かさが伝わってくるようだった。


「――ゴールデンの子犬じゃねぇか。なんだよ、可愛いじゃねぇか」


「だろう? 実はこいつを、君に譲りたいと思って」


「……あー、なるほど。そういう流れね。名前は?」


「ないんだ。今まで“子犬”で通してきたからね。名付け親は君に任せる」


 俺は写真を見つめ、しばし考えた。つぶらな瞳がまっすぐにこっちを見返しているように感じられた。思わず笑ってしまう。


「そうだな……チャールズ。なんかそんな顔してる」


 ハデはその名を反復して、笑った。


「チャールズか。うん、似合ってる。よろしく頼むよ、誠司くん」


「……まあ、いいけどよ」


「君はそう言うと思ったよ!さあさあ飲もう!飲もう!」


 そう言って、また笑う。グラスの向こう、いつも通りのハデがいた。大手企業のCEOでありながら、こうして庶民的な店で冗談を飛ばす気の良いオジサン──その落差が、不思議と心地よかった。


 数日後の夕方。


 講師の仕事を終えてギルドから寮へ戻ろうとしたところで、正面玄関に黒塗りのワゴンが停まっているのを見つけた。運転席から降りてきたのはスーツ姿の秘書らしい人物。そしてその隣に立っていたのは、例の男――ハデだった。


「よぉ、誠司くん」


 手を上げるハデの笑みは、相変わらず近所の気のいいオジサンのように柔らかい。だが、その横に置かれた社名であるE·Aと書かれたロゴのキャリーバッグからは、小さな鳴き声が漏れていた。


「まさか……」


「そう、そのまさかさ。こいつをよろしく頼む」


 ずしりとバッグを渡される。見た目以上に重みがある。須藤は一瞬だけ、心の奥で小さくため息をついた。いきなり友人に命を託されるなんて、常識的に考えればどうかしている。だが、ハデの真剣な表情に押し切られる形で、受け取ってしまった。


 部屋に戻り、恐る恐るバッグのファスナーを開ける。


 途端に、ふわりと柔らかな金色の毛並みがあふれ出すように顔を覗かせた。


「……おお」


 思わず声が漏れた。

 子犬は小さなあくびをして、くりくりとした瞳でこちらを見上げる。前足を一歩踏み出し、その丸っこい肉球――まるでクリームパンのようなモチモチの足を、須藤の指の上にちょこんと置いた。


「クゥン」


 短い鳴き声。

 まるで「よろしく」と言っているみたいだった。


 ほんの数秒前まで胸の奥にあった後悔や不安は、その仕草で霧散していく。小さな命の重みと温かさが、確かに掌に伝わってくる。


「……仕方ねぇな」

 須藤は苦笑しながら頭をかいた。

「よし、チャールズ。これから宜しくな」


 子犬――チャールズは嬉しそうにしっぽを振り、再びクンクンと鳴いた。その音は、須藤の胸に妙な勇気を灯すのだった。



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