第3話 はじめましてチャールズ
チャールズがうちに来てからの最初の夜は、思っていたよりもずっと賑やかだった。
ドアを開けた瞬間、犬特有の体温と、まだ獣っぽさの残る匂いがふわっと流れ込んできた。
柔らかな金色の毛が光を受けて揺れる。小さな体は案外活発で、毛布をぐいぐい引きずり回し、ソファの下に潜り込み、古びたスニーカーに鼻を突っ込んではくしゃみをする。
あちこちを嗅ぎ回り、初めての場所を全力で探検しているのだとすぐに分かった。
「おいおい、あんま暴れんなよ。まだ水も用意してねぇってのに」
ぼやきつつも、笑みが顔を緩ませる。久しぶりに誰かが自分の部屋にいて、空間に命が満ちる感覚があった。
寮はダンジョン関係者が多く住む複合施設の一角で、ペット可。テイマーの連中がいかに躾に苦労しているか、いつも笑い話にしているが、まさか自分がその輪の中に入るとは思わなかった。
チャールズは目をきらきらさせて部屋中を駆け回る。フローリングに爪がカチカチと当たる音、低くかすれた小さな声でのクンクンという鳴き声。
足元にまとわりついては立ち上がれないように見せ、すぐにお腹を見せて寝転がる。風呂に入れば脱衣所でじっと待ち、ベッドに入るといつの間にか足元で丸くなっている。
夜鳴きはしないが、妙にこちらを気にする素振りがあって、何か“人っぽい”間合いを感じさせるのが不思議だった。
ひとつだけ、思っていた通りだと思ったことがあった。──手間はかかるが、悪くない。
孤独に慣れた生活に、ふとした温度が入る。寝返りを打つたびに伝わる丸い体温に、こみ上げるような安堵を覚える。
チャールズの鼻先が自分の指先をつつき、小さなクンクンが漏れたとき、なぜか胸に小さな決意が灯った。面倒は見る。責任を取る。それだけは初めから変わらない。
翌朝はいつもどおり早く目が覚めた。朝の光が差し込む前に寮を出て、いつもの初心者用ダンジョン《低階層訓練迷宮区域》へ向かう。
名前は堅苦しいが、中身は徹底した安全設計の若手育成施設だ。浅い階層、模擬魔獣、トラップ、戻りポイント。作業の合間に草刈りをするような気持ちで、日々の繰り返しが訓練生を育てる。
ロビーで新入りと顔を合わせる。藤川は元気いっぱいで、昨日の失敗談を照れくさそうに話す。
「おはようございます、先生!」
「おー、元気いいな、藤川。今日も罠解除か?」
「はい! でも、昨日ちょっとやられまして……矢のトラップで袖がビリッと」
「装備が軽すぎるんだよ。初心者のうちは、多少重くても守備を優先しろ。スピードは後からでも鍛えられる」
若者たちの目は真っ直ぐで生々しい。何かを掴みたいという渇望が、言葉の端々に滲み出ている。俺はそんな彼らの背中を押すのが仕事だ。
剣と盾の基礎を叩き込み、距離とタイミングを体に覚えさせる。手先ではなく肩と腰で支えろ──その言葉を何度も繰り返し、実技で示す。防御で相手の攻撃を受け止め、仲間が安全に行動できる時間を作る。
訓練の合間、ふと右腿の奥に古い傷の痛みが走る。十年前、埼玉の中規模ダンジョンで仲間を庇った記憶がフラッシュする。
右ふくらはぎに噛みつかれ、神経がやられた。急な動作に鋭い痛みが走るたび、あの時の重みがよみがえる。しかし、その痛みは同時に自分の存在理由でもある。
あの時守った奴らが今、俺に「先生、教えてください」と言う。前線に立つ若者を育てる“土台”であり続ける──それが今の役目だ。
午前の訓練が終わるころ、スマホが震えた。画面を見ると羽出からのメッセージだ。休憩もそこそこにベンチへ戻り、膝の上で画面を拾う。
《チャールズ、元気? ご飯はよく食べる?》
すぐに俺は既読をつけて、素直な現状を返す。
《元気すぎて困ってるわ。なんでか俺の剣の鍔が気に入ったみたいで、ずっと噛んでる。お前なんかしこんだだろ》
送信ボタンを押すと、間もなく返信が返ってくる。文面はいつもハデらしい軽さで、だがどこか含みを残す。
《それは愛情表現だよ、たぶん。君のこと、ちゃんと認めてる証拠さ》
《まさか、お前が犬で気遣いするタイプだったとはな》
《僕も進化したのさ。冬限定だけどね》
その「冬限定」という一文に、俺は一瞬だけ眉をひそめる。冗談めかした言い回しだが、どこか意味深に聞こえるのは前に聞かされた話のせいだろうか。
ハデは毎年冬だけ姿を見せる――という噂話を、誰かが笑い話にしていたことを思い出す。だが今はそれも、夜の居酒屋で交わした他愛ないやり取りの延長のように感じられ、深読みすることはやめておいた。
それよりも、胸にあるのは単純な幸福だ。訓練生たちの真剣な顔、鍛錬の音、そしてバッグの中で今頃眠っているであろうチャールズの存在。小さな生命が自分の日々の輪郭を柔らかくしてくれていることに、どうしようもなく救われる。
メッセージのやり取りを終え、スマホをポケットにしまう。午後の訓練に向けて立ち上がると、ふと肩越しに聞こえる小さな鳴き声がリアルタイムで脳裏に蘇った。
あの丸い瞳と、クリームパンのような肉球で指先を押し返してきた感触。想像するだけで、どこか心が軽くなる。
世の中には変わらないものと、変わるものがある。十年前の傷は消えないし、訓練の厳しさも変わらない。
でも、チャールズが来たことで日常の輪郭は少しだけ変わった。明確なことは一つ――面倒を見ることは増えたが、それ以上に得るものがある。
俺は深く息を吸い込み、軽く笑ってから訓練場へ戻った。午後の時間も、新人たちの成長を見届けるという小さな誇りに満ちている。
チャールズの寝息を想像しながら、今日も一日、守るべきもののために立っていようと心に決めた。
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