第13話 冷たい雨(リヒト視点)
「もうすぐ雨が降るかもしれないし、病室に戻ろう」
あくまでも声色は平静を装って。
リヒトは愛する女の子に向かって手を伸ばす。
彼女ポラリス・クライノートはこんな朝早くからわざわざ入院する病院の屋上に出て、転落防止のための錆びたフェンス越しに
どう考えてもまずい状況にあるのが一目でわかる。
屋上はこの時間帯、主に夜勤明けの医療スタッフがリフレッシュのために訪れることが多かった。
リフレッシュのために入れるようになっている。間違っても精神的に追い込まれた患者が飛び降りるために、解放されているわけではない。
とはいえ今朝は雨が降る予報が出ていたのもあって、今ここにはポラリスとリヒトしかいない。
「よく、私がここにいるとわかりましたね。どなたかに聞いたのですか?」
「違うよ。神殿への出勤途中でこの近くを通ったら、屋上にいた君が見えたんだ」
良くない状況であることがすぐにわかったので、気づいたその場から屋上までリヒトは直接飛んできた。
病院から見ればマナー違反にはなるが、状況を考えれば充分許される行為。
こういう時、
「そうですか」
ポラリスの声は冷え切っている。それでも会話に応じてくれるだけ、ましだ。
「ほとんど私には会いに来てくれなかったのに」
「……それは本当にごめん。いくらでも謝るよ」
結局リヒトはこの数日、あまりポラリスと会えていなかった。
神殿での仕事――主に次期聖女となるポラリスのこと――で忙しくしていたのが原因だった。
でも、その中には副官や部下に任せられるものも多くあったのだ。
あえて守護騎士本人であるリヒトが自らすべてをこなしたのは、ひとえに彼自身の責任感から。
――そのせいで、肝心のポラリスに寂しい思いをさせてしまった。
入院中できるだけそばにいると言ったのに、嘘になってしまった。
ポラリスの世話をセレッソや病院スタッフに放り投げた結果だ。無論セレッソたちは何も悪くない。むしろよくやってくれた。
「…………リヒトさん。私を殴ってくれませんか」
「どうして、そんなことを……」
――殴られるべきは、きっと僕なのに。
「
「そんなこと、できるわけない」
自分でもびっくりするくらい、リヒトの喉から低い声が出た。それくらいつらくなることを言われた。
――どうして、そんな悲しくなることを言うんだ。
リヒトは泣き叫びたくなった。
だがこれも。他の仕事にかまけて生身のポラリス・クライノートから目をそらし続けたから起きたことだ。
きっとこれは、その罰だ。
向き合わなくては、ならない。
「いいえ、できます」
「できるわけない」
「だってあなたは『お仕事だから』、私と接してくださるのでしょう……?」
「違うよ!」
リヒトは悲鳴のような叫びを上げた。
「前も言ったけど仕事だから、じゃない。本当に君とまた会えて嬉しかったんだ。ほら、部屋に戻ろう……」
だけどポラリスは、無表情にリヒトを見て。
「ここにいる皆さん、お優しいです。でも私、優しさを怖く感じてしまうのです。きっと私は、どうかしているのでしょう」
リヒトは
――僕が今までしていたことは、何だったんだ?
「それに私が……リヒトさんの人生を奪いました。私のせいで、あなたは守護騎士として休みなく私を守らなくてはならなくなったのに。……だから、もう、終わりにします」
ポラリスはさび付いたフェンスをよじ登ろうとする。命を終わらせようとする。
「だめだポラリス! やめてくれっ!」
リヒトは全身から悲鳴を上げた。
フェンスに駆け寄り、かろうじて届いたポラリスの手に自分の手をぎゅっと重ねて必死で握る。
フェンスを握りしめる彼女の手は、すっかり凍り付いたように冷えていた。まるですでに、生きることをやめてしまったかのように。
「もう大事な人を失いたくないんだよっ!」
ポラリスが死ぬことを選ぼうとして、それでもリヒトは守りたかった。
生きていて、欲しかった。
リヒトは昔、大切な人がいなくなってしまったことがある。
泣いて泣いて泣き明かして、干からびるかと思って。それでも生きねばならないのは正に生き地獄だった。
まだ年齢
その中でももっとも大事な『大人』がいなくなり、心が壊れそうになった。
――そんな時に出会えたのが、救ってくれたのが君だった。
「いなくならないでくれ! 僕を置いて行かないでっ!」
刹那、ポラリスの全身から力が抜けた。
フェンスからずり落ちる
小さな両手をそっとフェンスから引き
「リヒトさん…………ごめ、ごめん、なさい」
「……君は悪くないよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
壊れた自動音声のように、ポラリスは何度も何度もごめんなさいと繰り返す。
これでは実家で虐げられているのと変わらない苦しみではないか。リヒトは唇を噛んだ。
「とりあえず、病室に戻ろう」
リヒトが何とか
ぽつ、ぽつと。二人の足元のコンクリートが濡れる。泣き出しそうだった空から、ついに雨粒の涙が落ちてきたのだ。
「……行こう」
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