第2話 約束

 宙にふわふわ浮かぶシャボン玉を掴もうとして、小学校四年生となった少女ポラリスは手を伸ばす。

 うっすら虹色をまとった無数のシャボン玉は、小さな手をからかうようにふわり、ふわりとすり抜けていった。


 ようやく触れたと思った瞬間に。シャボン玉は音もなしに消えてしまった。


「シャボンだま、またきえてしまいましたね」


 ポラリスの砂糖菓子のように甘く繊細な声に、傍らにいた小学六年生のリヒトが振り向いた。

 彼の手にはストローが握られ、彼がこのシャボン玉の群れを作り出したことを示している。


「シャボン玉はきえるものだよ」


 リヒトが控えめに苦笑する。

 ここはシレンシオの街を一望できる丘の上。

 極東の島国から友好の証として贈られたという桜の木々が、見事な薄紅うすべにの花を満開に咲かせていた。三月中旬から四月中旬まで長く花を咲かせている品種だという。


「ですが、」

「きえたら、また作ればいいんだよ」


 そう言ってリヒトがふーっとストローを吹けば、また沢山のシャボン玉が宙を飛ぶ。だがポラリスは不服そうに頬を膨らませた。


「さっききえたものとあたらしくつくったものは、ちがいます。さっきこわれたほうのシャボンだまがいいのです」


 割れたシャボン玉も散りゆく桜の花弁も、二度と取り戻せないものだ。


「それはちょっと……むりだと思うよ。魔法がつかえればべつかもしれないけれど」


「まほう、つかえないのですか」

「……この国ではむりなんだよね。ほら、エテルノにはマナがないからさ」


 この魔法惑星アタラクシアは、名のとおり魔法で形作られた世界。

 世界各地にそびえる『世界樹せかいじゅ』から絶えなく発せられるエネルギー『マナ』を用いて人々は生活している。


 だが。神々の悪戯かなんなのか、世界にはマナの恩恵が受けられない場所もあった。それが『最果て』と呼ばれるこの島国エテルノ王国だ。


 世界地図では西の端に位置し、少ない人口ながらアタラクシアではトップクラスの発展力と治安の良さを誇る『平和を愛する先進国』である。


「でもこのくにには、えーてるがあります」

「エーテルは聖女か神殿騎士じゃないと使えないんだよ」


 その代わり、エテルノ王国各地には『大水晶』が存在する神殿が設置されていた。

 ひとつの大水晶ごとに一人ずつ、祈りを通して魔法を使える者がいる。それが『聖女』だ。

 まれに男性の聖女も現れることはあるが、大多数の聖女はその名の通り女性でめられている。


 聖女と神殿を守護して、神殿の管轄かんかつ地域に出現した魔獣を倒すのが主な役目の神殿騎士たちも、やはり魔法を使用できた。


 エテルノ王国とその周辺海域を包むとされる天界からのエネルギー『エーテル』を通じて、彼ら彼女らは魔法を行使できるのだ。


 またマナで電気やガスといった各インフラが成り立つあちらと違い、こちらでは地熱、風力、太陽光といった自然エネルギーを使用して生活をしている。


「ていうかポラリスこそ、聖女こうほなんだろう? しょうらい魔法が使えるかもしれないよ」


 聖女になる人物には決まった特徴がある。


 一、来たるべきが来た時に大水晶を通じて名を呼ばれる。

 二、生まれつき銀色の髪と赤い瞳をしている。

 三、何かと困難な人生を送ってきている。

 四、エテルノ王国内での出身である。


 そして少女ポラリス・クライノートは、絹のようになめらかな銀糸ぎんしの髪と、ルビーをはめ込んだかのようにきらめく赤い瞳を有していた。

 ゆえに聖女候補として、行政のリストに登録されてもいる。


「そんなこと、どうでもいいのですっ」


 あまり人に注目されたくないポラリスには面白くないことだ。

 そもそもポラリスにとっては、人生自体が面白くないことだった。


「そんなことより、わたしはおかあさまとおとうさまにやさしくされたいのですっ」


 彼女が親と上手くいってないことをよく知る少年は、ばつが悪そうに眉を下げた。


「ごめん……ポラリス」


「…………」


 唯一の希望は、この美しい男の子の存在のみだった。


「でもぼくは、ぼくだけはぜったいきみの味方でいる」


 ぽんぽんと、ストローを持ってないほうの手でポラリスの背中をさする。


「ほんとうにみかたなのですか?」

「あたり前だよ」


 リヒトは断言した。


「ならちゅうがっこうに行っても、わたしのそばにいてくれますか?」

「それは……」


 二人はこれまで同じ小学校に通っていた。少年が最高学年たる六年生、少女ポラリスが二つ下の四年生。


 これまで一緒に過ごしてきた日々は、学年や性別を越えて二人にとって宝物になっている。


 そして今日は、リヒトたちの学年の卒業式だった。

 君の味方だと言いながら、彼は来月にはポラリスとは違う場所へ行ってしまうのだ。


 毎日のように放課後一緒に遊んでくれた男の子が、遠くへ行ってしまう。

 今まで小学生同士だったのが小学生と中学生になってしまう。


 ――わたしはそのことがとても、とてもかなしい。


 中学に行けば部活動もあるし、定期テストもある。高校受験だって考えねばならない。

 対人関係も広がる。自分がその広がった関係の片隅にしかいられないことを、ポラリスはなんとなしに理解していた。


 リヒトと友人だったシリウスとは、数ヶ月前に喧嘩したきり話してもいないという。 


 これからは、もうリヒトは誰からも『お姫様』とは呼ばれないかもしれない。

 美しく成長してきたリヒトだが、これから肉体は男性らしさを増していき、声変わりもするだろう。


 ポラリスも同じように女性らしい体つきになっていく。生理も始まるのだ。色々なことが今まで通りとはいかない。


 すべて、すべてが変わっていく。


「生きてればすぐあえるよ」

「生きるの、ですか……」

「生きててつらい?」



「つらいです。おかあさまはわたしに『おまえなんかうまなきゃよかった、きえろ』となんどもなんどもいいます」



 ポラリスはよりによって母親に命を軽視され、軽蔑されていた。本来なら一番に愛情を注がれるべき人に。



「わかるよ」


 あっさりとリヒトは同調した。彼は彼で大変な身であることを、ポラリスは四年間の付き合いで思い知っていた。だからこそ、自分のことも分かってくれると。


「ぼくも母さんに捨てられちゃったから、よくわかるよ。でもぼくはきみには、生きていてほしい。それならぼくも、生きられる」


「ぼくはさ、ポラリスが生きてくれればいっしょに生きるし、きみが死んだらきっとぼくも死んじゃうんだ」


「だからポラリス、死にたいままでいいんだ。死にたいままで、生きて欲しいんだ」


 あまりにも、あまりにも重々しいことを、至って普通にまだ一二歳の少年は言って退ける。

 その青い瞳はどこまでも真剣だったから、真っ直ぐで嘘の欠片も見つけられなかったから。


「わかりました、リヒトさん。わたしは生きます」


 たどたどしくも答えれば、少年リヒトは涙を流さずに泣き笑いをした。

 作っていない、心の底から本当の、笑みだった。


「ありがとう。これ、ぼくからのお願いだから」

「……では、わたしもリヒトさんにおねがいしても、いいですか」

「いいよ」


「またわたしと会って、くれますか」

「もちろんだよ」


「では、大人になったら……わたしと、けっこんしてくれませんか?」


 なぜ、この時そう言ったのかは分からない。

 でもポラリスはいつの間にか、二つ年上の男の子が好きになっていたのだ。

 

 リヒトといる時間は優しくて、嬉しくて、楽しくて。

 もっともっと一緒にいたいと思うようになっていた。


 限界まで顔を真っ赤にした、ポラリスの一世一代の告白に。


「ぼくと結婚できるなら……生きるのもがんばれそう?」

「はい!」


「じゃあポラリス、大人になったら結婚しようか。結婚式ですっごく大きいケーキ、みんなで食べよう。ポラリスにはきれいなドレスをきせてあげるね。ぼくは『おいろなおし』でメイドさんになるよ」

「ドレスにメイドさんに、さとうがし、ですね。ありがとうございます」


 リヒトは優しく笑んでいたが、その発言のどこまでが本気かまではわからなかった。ただ本気なら、自分の結婚式でメイドさんになるなんて言わないだろう。

 おそらく自分を元気づけるために結婚しようと言ってくれたのだと、ポラリスは解釈した。


 それでも気持ちを伝えられて良かったと、素直に思った。



「ポラリス、ぼく、自力でとべるようになったら、すぐにきみをむかえに行くから。だからそれまでは生きていてほしいんだ」



 リヒトを呼ぶ声がした。リヒトの母方の祖父だ。

 二人の時間は、刻々と終わりに近づいていた。

 

 烏の少年は、最後にこう言って、ポラリスはこう答えた。


「だから、また、会おうね」 

「はい、またお会いしましょう」


 からすがなくから、かえりましょ。

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