第23話 覗き見と亀裂
調査を依頼したことは、重い石を深い井戸へ投げ込むようだった。澪の心底には不安の波紋が幾重にも広がるが、反響は一向に返らない。
待つ時間は苦痛で、長かった。電話やメッセージのたびに心臓が縮み上がり、また深く沈む。彼女は無理やり、晶が渡した新プロジェクトの提案書に意識を集中させた。スマート繊維とオートクチュールの融合——それは危険な炎の束のように、彼女を焦がし、惹きつける。かつて夢見たが届かなかった領域だ。晶は、デザイナーとしての彼女の核心を、正確に衝いてきた。
この「見透かされ、与えられる」感覚は、恐怖と微かで抑え難い高揚を伴っていた。
彼女は狂ったように資料を読み、スケッチを描き始める。仕事で自分を麻痺させ、乱れた感情を押し殺す。夏目秘書に連絡し、技術研究所の非核心データさえ要求した。
返信は効率的だった。【氷室社長よりプロジェクト進捗について問い合わせ。技術チームとの打ち合わせを手配すべきか。】
澪はその一文を見つめ、指先が冷たくなる。
(やはり、私の一挙手一投足を。)
スマホを置き、散乱するスケッチとデータを見て茫然とする。巨大な洪流に巻き込まれ、復讐という明確な道から遠ざけられている。この制御不能な感覚が、彼女を窒息させた。
夕方、晶は時間通りに帰宅する。
ジャケットを脱ぎ、散らばるスケッチとノートパソコンを見て、微かに足を止める。
「進展は?」
ソファの傍らに歩み寄り、彼女の描きかけの構想図を自然に手に取る。
澪の心臓が跳ね上がる。奪い返そうとする衝動を抑える。彼の接近は圧迫感そのものだ。微かな杉と煙草の匂いが、彼女の心を乱す。
「ただ……初期のアイデアです」
声はかすれる。
晶は評価せず、図面を見つめる。指先で無意識に紙の端を撫でる。その仕草に、集中した性感が宿る。
「材料研究所の責任者を、明日呼ぼう。直感的な理解が必要だろう」
「明日?」
澪は息を呑む。
「問題が?」
晶が顔を上げる。その視線は深く、すべての言い訳を見透かす。
澪は隠れる場所なく、覚悟を決める。
「……ありません」
晶は微かに頷く。満足したように。それ以上言わず、書斎へ向かう。
澪はその背中を見て、掌に汗をかく。この当然のごとき支配が、無力感と怒りを呼び起こす。
夕食は相変わらず沈黙。コウは空気を察したのか、静かだ。
食後、晶は書斎で仕事。澪はコウを寝かしつけ、リビングの暗がりに座る。心は千々に乱れる。
その時、暗号化スマホの画面が光った。着信音はなく、振動だけが耳障りだ。
心臓が激しく跳ねる。胸を破りそうだ。
素早くスマホを掴み、ゲストルームの浴室に隠れる。ドアに鍵をかけ、深く息を吸い、受話ボタンを押す。
「話せ」
声は低く、震える。
向こうから、調査員の冷静で冷たい声。
「対象の昨日の行動を確認。午前十時から十二時、氷室グループ本社で会議。午後一時十五分、単独で会社を離れる。一時四十分、『静語』カフェ到着。面会者は中年女性、五十五歳前後。蘇 玉芬。提供された住所の居住者です。面会は約三十五分。会話内容は不明だが、蘇 玉芬は感情的で、頻繁に涙。氷室 晶がティッシュを渡し、慰める動作を確認。二時二十分頃、氷室 晶が先に退席。蘇 玉芬は単独で十分ほど滞留後、退去。その後の追跡により、蘇 玉芬は明日、K市行きの新幹線チケットを購入済み」
一言一句が、氷の錐のように澪の鼓膜と心臓を刺す!
確認された!彼は母に会っていた!裏で調査し、接触していた!
母は泣いた……彼が慰めた?何を話した?なぜ母は翌日急いで去る?脅迫?説得?
途方もない恐怖と怒りが津波のように押し寄せ、全身が氷のように冷たくなる。立っていられない。
「もう一点」
調査員の声に、珍しく重みが宿る。
「調査過程で、別の集団も同時に蘇 玉芬を監視しているのを発見しました。相手はプロフェッショナルで対偵察能力が高く、危うく気づかれるところでした。初期判断では、氷室 晶の人間である可能性が高い」
ドン――!
澪の頭が真っ白になる。血液が凍る。
晶の人間?彼が母を監視?なぜ?保護?支配?それとも——最初から居場所を知り、私の調査さえ予測していた?
この考えは毒蛇のように心底に忍び込み、冷たい舌を吐く。
(徹頭徹尾、愚か者……!すべての行動が、彼の予測と監視の下に!私の秘密調査も、彼が故意に残した隙?誘い込む餌?)
果てしない寒気と屈辱が頭上から押し寄せる。スマホを握りしめ、指関節が白くなる。歯を食いしばり、叫びを必死に抑える。
氷室晶!
貴方は、何がしたい?私の恐怖を弄び、足掻きを鑑賞するのが、そんなに面白い?!
猛然と水道をひねり、冷水を顔に叩きつける。冷静になろうとするが、体の震えは止まらない。
(ダメだ!これ以上、受動的でいられない!何か手を打たねば!偽善の仮面を剥かねば!)
数度、深く息を吸う。無理に平静を装う。瞳の恐慌と混乱が、背水の陣の冷たい憎悪へと変わる。
感情を整え、浴室を出る。
リビングは暗い。書斎のドアの隙間から光が漏れる。
澪は電気をつけず、幽霊のように音もなく書斎のドアへ歩み寄る。手を上げ、ドア板に懸けるが、下ろせない。
(問い詰める?怒鳴る?関係を破綻させる?)
(……いや。それでは、彼の思う壺だ。感情を制御できぬ醜態を、待っている。)
ゆっくりと手を下ろす。胸は激しく上下する。
振り返り、寝室へ向かう。
この夜、彼女は目を見開いたまま、夜を明かした。
翌朝、普段より早く起きる。丹念にメイクを施し、隈と疲労を隠す。最もシャープな黒のスーツに着替える——戦場へ赴くように。
ダイニングでは、晶が朝食をとり、経済ニュースを見ている。足音に顔を上げる。視線が彼女の服装と表情に留まり、眉根が微かに動く。
「おはよう」
淡々とした声。
澪は挨拶に応じない。テーブルの向かいへ歩み寄り、座らず、両手をテーブルに突く。体を微かに前に傾け、彼をまっすぐ見つめる。声は恐ろしいほど平静で、一か八かの冷たさを帯びる。
「氷室社長、新材料プロジェクトの件、考えがまとまりました」
晶はコーヒーカップを置き、顔を上げる。続きを待つ。
澪はその底知れぬ視線を受け止め、一言一句、はっきりと告げる。
「承諾します。ですが、条件が一つ」
一拍置く。瞳の奥に、決然たる鋭い光がよぎる。
「このプロジェクトは、私が完全に独立して主導します。氷室グループは資金と技術支援のみ。いかなる決定にも干渉なし。そして、直ちに研究所に入り、最高の権限を要求します」
提示した条件は、苛酷で傲慢だ。彼女の立場と交渉材料を完全に超えている。ほとんど挑発だ。
彼女は賭けている——彼がこのプロジェクトをどれほど重視するか、背後に隠す目的が、この「無礼」を容認する価値があるか、と。
晶は静かに彼女を見つめる。顔に表情はない。心の内は読めない。
空気が凝固する。数秒の、息の詰まる沈黙。
彼はゆっくりとコーヒーカップを手に取り、一口含む。
深淵のような瞳で彼女を見つめ、薄い唇を開く。
二つの言葉を吐き出す。
「いいだろう」
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