第22話 濃霧の最中

あの豪華で冷たい最上階のマンションに戻った篠塚澪は、魂が抜けたようだった。


機械的に靴を脱ぎ、リビングのソファに崩れ落ちる。脳裏に、カフェの光景が焼き付く——俯き啜り泣く母、そして晶の珍しく穏やかな表情。

(何を話した?なぜ密会?警告?買収?それとも……?)

五年前、彼女はすべてを断ち切って逃げた。母とは月々の送金以外、ほとんど接触はない。互いに遠ざかる暗黙の了解。

(晶はどうやって見つけ出した?何を話して、あそこまで泣かせた?)


無数の疑問が蔦のように心臓に絡みつき、息が詰まる。

澪は猛然と立ち上がり、リビングを焦燥に駆け巡る。手のひらは汗で湿り、呼吸が荒くなる。

(知らねばならない!愚か者のように弄ばれてたまるものか!)


寝室に駆け込み、ドアに鍵をかける。震える指でスマホを取り出す——母の番号へ。

(電話する?直接聞く?)

(……ダメだ。藪蛇だ。母を危険に晒すかもしれない。)

しかし、この操られている未知は、彼女を狂わせそうだった。


「ママ?」

ドアの外から、コウの柔らかい声。

澪はハッとし、深く息を吸う。感情を押し殺し、声を整える。

「うん、ママ、帰ったよ。」


ドアを開ける。コウが小さな恐竜のぬいぐるみを抱えて立っている。

「ママ、元気ないの?」

澪はしゃがみ込み、息子を抱きしめる。ミルクの香りに、わずかな温もりと力を汲み取る。

「ううん、ママ、ちょっと疲れただけ。」

声はこもる。コウが小さな手で背中をポンポンと叩く。

「ママ、いい子ね、お休み。おじさんもね、疲れたら休まなきゃだめだって。」


澪の体が微かに硬直する。

(晶が?子供にそんなこと?)

「おじさん……いつ?」

「今日の午後。おじさんが電話してきて、コウがお利口にしてるか聞いて、それから——ママが帰ったら、キッチンにスープがあるから飲むようにって。」


澪の胸が、微かに疼く。酸っぱく、痺れるような、言い知れぬ感情。

(一方で私を恐怖に陥れ、他方で子供を使って気遣う?彼は一体、何がしたい?)

この氷と炎の拷問は、彼女を分裂させそうだった。


夜、晶は普段より遅く帰宅した。

玄関に微かな酒気と夜の冷たさを纏って現れる。澪がコウを抱いて絵本を読む姿を見て、足を止める。

澪はすぐにその気配を感じ、全身の神経が張り詰める。顔は上げず、絵本に集中するふり。彼から注がれる、深く査定する視線を肌で感じる。

彼は何も言わず、書斎へ向かう。


しばらくして、ドアが開く。晶が出てくる。手にはクラフト紙のファイル。

ソファの前へ歩み寄り、それをローテーブルに置く。

「これを見ろ。」

声に感情はない。少し疲れているように聞こえる。


澪の心臓が高鳴る! また書類?今度は何?母に関すること?

平静を装って顔を上げる。

「これは?」

晶は答えず、目で促す。


澪の指先が微かに震える。コウを下ろし、ファイルを手に取る。軽い。中身は少なそうだ。

深く息を吸い、封を切る——中から出てきたのは、予想した母に関するものではなく……数枚のデザイン画と、短いプロジェクト提案書だった。


デザインは鋭く未来的。「涅槃」のスタイルだが、テーマはジュエリーではなく——スマートウェアラブルとオートクチュールの融合?

澪は呆然とし、困惑して晶を見上げる。


晶は対面のソファに座り、ネクタイを緩め、眉間を揉んでから口を開く。

「氷室グループの新素材研究所が、感応性・自己適応型の新繊維を開発した。お前の初期コンセプト画を見たことがある。似た発想を持っていたな。協力できるかもしれない。」

淡々とした、ビジネス提案のような口調。


澪の思考が停止する。

(深夜の帰宅、真新しい、先進的すぎるプロジェクト?母の件で心が乱れているこの時に?これも試練?操作?)

「なぜ……突然?」

声はかすれる。


晶の視線が彼女の顔に落ちる。深く、読めない。

「突然ではない。検討はしていた。時期が来たと判断した。」

時期?いつの?

(彼は何を企んでいる?)


澪は軽いデザイン画を握りしめ、千斤の重さを感じる。

(見透かせない……まったく見透かせない!)


「私……」

口を開く。今日の午後、どこへ?誰に?何が目的?と問い詰めたい。

しかし、言葉は喉元で飲み込む。

(聞いてはいけない。聞けば、見たと認めることになる。受動的になる。)


晶は彼女の顔に浮かぶ激しい表情の変化、葛藤と疑問に満ちた瞳を見つめる。瞳の色を夜のように深くする。まるで……何かを待っているように。

ついに、かすかに、ため息をつく。

「急いで返答しなくていい。よく見て、検討しろ。今後の連絡は夏目秘書がする。」

それだけ言い、立ち上がり、寝室へ向かい、ドアを閉じた。


澪は一人取り残され、突然のプロジェクト提案を前に、心は乱れ、千々に砕けそうだった。


この夜も、彼女は眠れなかった。

枕元の未来的な提案書と、カフェで泣く母の姿が交錯する。眼前に立ち込める濃霧。霧の中で、晶の姿はますます巨大に、ますます計り知れなく見える。


彼は、最も巧妙な棋士のようだ。指し手に法則はなく、しかし一手一手が、彼女の弱点と野心を衝く。彼女を追い詰め、混乱させる。かつて明確だった復讐の道は、より強大で複雑な力によって、静かに歪められ、未知の方向へと導かれている。


そして最も恐ろしいのは——彼女自身の心の奥で、憎悪と警戒以外に、微かで、恥ずべき好奇心が芽生え始めていることだ。

(氷の仮面の下に、どんな晶が隠されているのか……知りたい。)


その考えが頭をよぎった瞬間、全身に冷や汗が噴き出る。

(ダメだ!彼に対して、あってはならない感情を抱いては!)

(母との真実を知らねば!主導権を取り戻さねば!)


翌日、澪はさらに憔悴した顔で、決意を固める。

新プロジェクトの構想に集中するため、夏目秘書に一日の休暇を申請する。そして、暗号化された番号にダイヤルする——海外時代に協力した、極めて慎重な私立探偵だ。


「ある人物の、昨日の行動を。そして……誰に会い、何を話したか。」

声を潜め、冷静に指示する。母の南部の住所と名前を伝える。

「費用は構わない。絶対的な秘密厳守で、最速で。」


電話を切り、窓辺に寄りかかる。階下を流れる車の灯りを見つめる。掌は氷のように冷たい。

氷室晶、貴方が迷宮を布くのなら、私は……自ら答えを探す。

その答えが何であれ、知らねばならない。


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