第21話 心の壁の亀裂

あの束の書類は、篠塚澪の手の中で、千斤の重みを持っていた。


寝室のドアに鍵をかけ、冷たい扉に背を預ける。鼓動が早く、静寂の中で騒がしい。

震える指で、ファイルの中身を再び取り出し、ベッドサイドランプの仄暗い光の下で、一字一句、確認する。


株式譲渡契約書草案。条項は明瞭、利益配分も明確で、偽りはない。あの15%の利益配当権は、「涅槃」が法的にも財務的にも、真に彼女のものとなることを意味する。晶は、紛れもない実利を差し出したのだ。


そして氷室悠斗と白石華蓮に関する証拠——写しではあるが、不完全ながらも、資金の流れやメールの断片は衝撃的。刃は十分に鋭く、いつでもあの二人を仕留められる。そして、その刃を、彼女の手に渡した。


なぜ?


昨夜の告白にも似た言葉、今朝のぎこちない気遣い、午後のコウのための完璧な計画、そしてこの重い「贈り物」。

すべてが連鎖し、澪に一つの可能性を示す——

(もしかして……彼は本当に……?)


(……違う!)

澪は猛然と首を振り、危険な考えを振り払う。彼は氷室晶だ。冷酷で専制的な支配者。これは巧妙な操り、蜜で包まれた毒。心の防御線を崩し、掌中の玩具とするためだ。


だが、心底で微かな声が反論する。

(操るだけなら、なぜこれほどの真の代償を払う?株式と証拠は、紛れもない権力と武器だ。)


二つの思いが頭の中で激突し、彼女を引き裂く。

この夜も、澪は眠れなかった。書類は枕元にあり、灼熱の炭のように心を焦がす。


翌日、澪は遅く起きた。顔色は青ざめ、目の下にくっきりと隈がある。

晶はすでに出社。ダイニングテーブルにはメモが一枚——

【厨房に粥あり。午後三時、運転手が弁護士事務所へ送迎。】


余計な言葉はないが、彼女の全てが手配されている。

澪は指先を微かに震わせる。朝食の食欲まで読まれている。弁護士事務所は株式契約を具体化するため。

この冷徹な「気遣い」に、居心地の悪さを覚える。


粥を半分ほど無理やり飲み込む。味は感じられない。

午前中、上の空。仕事をしようとしても効率が上がらない。夏目秘書に遠回しに晶の日程と機嫌を探る。

返信は早く、事務的。【氷室社長は本日多忙。機嫌は安定。】


午後三時、運転手が時間通りに待つ。弁護士事務所に着くと、主任法律顧問が出迎え、余計な挨拶もなく契約書草案を差し出す。

「リネア様、氷室社長のご指示で作成いたしました。ご高覧ください。修正点があればお知らせください。」


事務的な口調だが、瞳には微かな探る色。

澪は条項を読み進め、心臓の鼓動が速まる。罠はなく、条件は予想以上に優遇。

晶は本気だ。


「氷室社長は……他に何か?」

思わず尋ねる。

弁護士は眼鏡を押し上げ、無表情に答える。「貴女のご意向を尊重し、優先するよう、とのみ指示されております。」

澪の指先が、紙の端を強く握る。


仮契約にサインを終え、弁護士事務所を出る。外の陽射しが眩しい。

階段に立ち、軽い眩暈を覚える。全てが早すぎ、現実味がない。


車に乗り込み、流れる街並みを見ながら突然言う。

「会社には行かない。家にも帰らない。海の方へ……少しドライブを。」

運転手はバックミラーで一瞥し、無言で頷く。車は海岸通りへ滑り込む。


潮風が半開きの窓から吹き込み、胸の鬱積を少し晴らす。

彼女には空間と時間が必要だった。しかし、交差点を過ぎ、見慣れたカフェを通り過ぎる時、視線が何気なく窓際を掠め——全身が硬直する。


窓際のボックス席。向かい合う二人。

一人は氷室晶。

そしてもう一人——五年も会わず、海外にいるはずの、母親だった。


晶は落ち着いて話す。母親は俯き、ハンカチで目元を拭い、肩を微かに震わせる。泣いているのか?

ズン——。

澪の頭が、ハンマーで殴られたように真っ白になる。

晶がなぜ母親と?いつから連絡を?何を話した?母はなぜ泣く?


無数の疑問と、途方もない恐怖が津波のように襲う。車から飛び出しそうになる衝動。


唇を噛み締め、冷静を装う。晶に悟られてはならない。

「止まって!」声を潜め、運転手に焦って命じる。「路肩に停めて!」

運転手は理解できずとも、車を停める。


澪は車窓越しに凝視する。距離があり会話は聞こえないが、母の激しい感情、晶の穏やかで落ち着いた表情が見える。ティッシュを差し出し、何かを慰めている様子。


十分ほどで晶が立ち、母に何か告げ、微かに頷き、カフェを去る。

母は一人座り、窓の外を見つめ、黙って涙を流す。顔には悲しみ、罪悪感、そして微かな安堵さえ。


晶の車は走り去る。澪の心臓は狂ったように鼓動し、肋骨を破りそうだ。

カフェの孤独な母を見つめ、スマホを手にするが、ダイヤルは押せない。藪蛇だ。


彼女は知らねばならない。晶が裏で何をしたのか?脅迫か?誘惑か?それとも……?

背筋が凍る推測が頭をよぎる。

(まさか、「ずっと探していた」は、私の家族にも及んでいた?過去五年、彼はどこまで知っている?)


澪は、晶が緻密に張り巡らした深い霧の渦に陥ったように感じる。方角も境界も見えない。

「帰りましょう。」力なく運転手に告げる。声はかすれる。

車は再び走り出す。澪はシートに寄りかかり、目を閉じる——かつてない疲労と恐怖。


氷室晶。

貴方は、何者?

貴方は、この幾重にも仕組まれた謎の局を布き、何を望む?

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