第18話 仮面舞踏会

夜の帳が下り、汐見市随一の格式を誇るホテルの宴会場は、再び煌びやかな光に包まれていた。

商工会主催の年次レセプション——権力と富が静かに火花を散らす舞台である。


篠塚澪が氷室晶の腕に手を添えて会場に現れた瞬間、すべての視線が一斉に集まった。

彼女は、晶が用意したという氷のような青のロングドレスを纏い、雪のように白い肌を際立たせている。

「涅槃」の未発表ジュエリーが首元と耳元で冷たく輝き、まるで触れれば砕けそうな芸術品のようだった。

晶は黒のスーツに身を包み、冷徹かつ高貴なオーラを放つ。ただそこに立つだけで、会場の中心となる存在だ。


澪は社交用の微笑みを浮かべ、四方から注がれる羨望と嫉妬、探るような視線を受け流していた。

腕は硬直し、晶の腕を通じて伝わる揺るぎない体温が、言い知れぬ緊張を呼び起こす。

(……彼は私を戦利品のように晒しているのか?)


晶が微かに顔を傾け、耳元で嗄れた声を落とす。

「冷静に。私の顔に泥を塗るな」

温かい吐息が耳朶を撫で、戦慄が走る。

澪が無意識に身を引こうとすると、彼の腕がわずかに締まり、動きを封じた。


その時、聞き慣れた声が響く。

澪の血液が一瞬で凍りついた。

氷室悠斗がグラスを手に近づいてくる。無理な笑顔を浮かべた白石華蓮が従っていた。

悠斗の視線は毒刃のようで——不満、怨恨、そして微かな驚嘆が混じっている。

華蓮は澪の輝きと晶を見つめ、指先がドレスの裾を握りしめていた。嫉妬の炎が、瞳の奥で燃え上がっている。


「叔父上、リネア様。これは……驚きです」

悠斗の笑みは引きつっていた。

晶は淡々と一瞥する。「何がだ?」

悠斗は口を噤む。代わりに華蓮が甲高い声で割り込んだ。

「リネア様の社交術も流石ですね。こんなに早く汐見の核心に入り込むとは」


澪は晶の腕の筋肉がわずかに緊張するのを感じた。

深く息を吸い込み、吐き気と憎悪を押し殺す。

顔を上げ、華蓮を見据え、冷たい微笑を浮かべる。

「氷室奥様、お褒めに預かり恐縮です。ですが、剽窃や男頼りで這い上がった“デザイナー”とは違い、私は実力で語ることを信じておりますので」


華蓮の顔から血の気が引く。衆人環視の中での恥辱だった。

「貴様っ!」

「華蓮!」悠斗が彼女を制止する。その目は陰湿に光る。

「リネア様、言葉は慎重に」

「分際?」澪は軽く笑った。その瞳は霜のように冷たい。

「氷室部長が私に言葉を教えると? それとも氷室氏は、協力者を押さえつけることでしか体面を保てないのかしら」


巧みに個人の怨恨をビジネスの領域へすり替え、悠斗を黙らせる。

周囲の視線が次々と集まっていく。


晶は終始沈黙し、冷ややかに傍観していた。

空気が限界まで張り詰めた時、ようやく低く言葉を落とす。

「悠斗、己の女ぐらいしっかりと躾けろ。氷室家の顔に泥を塗るな」


その一言が、すべての責任を華蓮の失態と悠斗の不行き届きに帰した。

悠斗は青ざめ、華蓮を睨みつけ、泣き出しそうな彼女を引きずって去っていった。


邪魔者が消え、晶の視線が澪に戻る。

深淵を覗くような眼差し。

「口が立つな」

澪は睫毛を伏せる。「社長の深謀遠慮には及びません」

(……彼は止められたはずだ。わざと私に暴れさせ、最後に裁き役を演じた)


晶は微かに嗤い、何も言わず彼女を連れて賓客の中へ戻る。

意図的に彼女を注目の的にし、有力者たちに紹介していく——まるで「この女は私の庇護下にある」と宣言するかのように。

澪は気丈に振る舞い、挨拶と試探に応じる。

時に晶の合図の下で専門的な見解を述べ、賞賛の視線を集めた。


晶の視線から、品定めの色が薄れ、何か別の、言葉にならない感情が混じり始めていた。


宴も中盤に差しかかり、澪は息苦しさを覚え、化粧室へ向かう。

洗面台の前で冷水に顔を打つ。

鏡に映るのは、完璧なメイクの下で疲労と葛藤を滲ませる女。

(……これが彼の望む私? 魂のない装飾品?)

(……違う。絶対に違う)


メイクを直そうとしたその時、背後で個室のドアが開いた。

白石華蓮が現れた。涙の跡と怨念に歪んだ顔で、鏡越しに澪を睨む。

「望月結衣……よくもまあ!」

怒りで震える声。

「叔父様に取り入って玉の輿だと? あの人がお前のような女を本気にすると思う? 遊びなのよ!」


澪はメイク直しを続け、華蓮を見もせずに言う。

「氷室奥様、誹謗中傷は訴訟ものです」


「訴訟?」華蓮は嘲笑する。「どうぞどうぞ! 皆にお前の正体を曝け出してやる! 悠斗様に捨てられたくず女が、恥知らずにも叔父様のベッドに潜り込んだってね!」


澪は口紅を置き、ゆっくりと振り返る。

その目は毒刃のように冷たく、一歩一歩、華蓮に迫る。

「白石華蓮」

声は低く、背筋を凍らせる。

「五年経っても、犬の遠吠えしかできないのか? 私はもう、お前たちに踏み躙られて泣き寝入りするだけの望月結衣じゃない」


その迫力に、華蓮は無意識に後退りし、洗面台に背をぶつけた。

「な、何する気よ?」


澪は手を伸ばし——だが、髪を整えた。

親密な動作。だが瞳は絶対零度の冷たさで輝く。

「何もしない」

囁くような声が、鋭く華蓮の胸を貫く。

「ただ、お前と氷室悠斗が頼るすべてを失い、喪家の犬のように汐見から追い出される時……今のように吠えていられるか、見てみたいだけ」


華蓮は恐怖に目を見開き、顔面が蒼白になる。

澪は手を引き、汚物に触れたようにティッシュで指を拭う。

「せいぜい、最後の輝きを謳歌するがいいわ——氷室、奥、様」


振り返らず、ハイヒールの音を響かせて化粧室を後にした。


廊下の角で、壁にもたれる男の姿が見える。

氷室晶だ。火のついていない煙草を指に挟み、すべてを見透かすような深い眼差しで彼女を見ていた。


「発散は済んだか?」

声には感情の襞がない。化粧室の一部始終を、彼は知っている。


澪の心臓が高鳴る。

諦めにも似た覚悟が胸をよぎり、顔を上げる。

その視線を正面から受け止め、唇端に挑発的な弧を描いた。


「前金を、少しだけ頂戴しただけです。氷室社長、ご立腹ですか?」

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