第19話 雨夜の囚籠
帰路の車内は、行きよりもさらに重苦しい空気に満ちていた。
窓の外は再び雨。しとしとと伝う水滴が、都会の灯りを滲ませ、車内を静かなる牢獄へと変える。晶は目を閉じ、仮眠をとっている。通り過ぎる光が、その冷徹な横顔の輪郭を浮かび上がらせる。澪はドアに寄りかかり、雨の跡をぼんやり追う。無言のまま。
(…あの「発散は済んだか?」という言葉と、底知れぬ視線。彼はどこまで知っていた?)
車はマンションの地下駐車場に滑り込み、エレベーターは無音で上昇する。狭い箱の中には、二人の微かな息遣いだけが響いた。杉の香りに混じった酒と煙草の気配が、晶から漂い、澪の五感を強引に侵す。
ドアが開き、晶が先に出る。澪は後を追う。室内は静寂に包まれ、コウちゃんはベビーシッターに寝かしつけられている。
晶はジャケットをソファに放り、ネクタイを緩め、酒棚へ向かった。
「来い。」
背を向けたままの、感情の読み取れぬ命令。澪は硬直する。心の警報が鳴り響く。
(…また、何を仕掛けてくる?)
動かぬ彼女を見て、晶は振り返る。手にはグラス二つとウィスキーボトル。
薄暗がりの中、その視線は一層深く、重く見えた。
「二度言わせるな。」
澪は唇を結び、覚悟を決めて歩み寄った。
彼はソファに座り、琥珀色の液体を注ぎ、一つを彼女の前に押しやる。
「座れ。」
澪は対面のシングルソファに腰を下ろす。体は硬直し、酒には手を触れない。
晶は一口含み、彼女の顔を眺める。理解し難い絵画を鑑賞するように。
「今夜の貴様は、悪くなかった。」
淡々とした、商品を評価するような口調。
「少なくとも、氷室氏の顔を潰さずに済んだ。」
澪の心が微かに締めつけられる。褒めているのか、嘲っているのか。
「…お褒めに預かり光栄です。」
「なぜ、お前を連れて行ったか分かるか?」
「…」
澪は沈黙する。答えは出ない。
「…所有権を示すため?自分の居場所を自覚させるため?」
晶は低く笑った。喜びのない笑い。
「どうやら、分かっているようだな。」
グラスを置き、身を乗り出す。肘を膝につき、その視線は実体のある鎖のようだ。
「ならば、望月結衣、今、お前は自分の居場所をはっきりと自覚したか?」
その接近に、圧迫感が襲う。晶の吐息の熱さすら感じられる。
澪は耐え、無理に視線を受け止める。
「…ずっと、分かっていました。」
声には、微かな震えが宿る。
「私は、あなたが氷室悠斗と白石華蓮に復讐するための道具。気まぐれで籠に閉じ込めた小鳥。…コウちゃんを支配するための駒。」
晶の瞳の色が瞬時に深淵へ沈む。嵐を孕んだ深海のようだ。
彼はさっと手を伸ばし、彼女の顎を掴む。力は強くないが、逃れられない。
「道具?小鳥?駒?」
一言一言が、歯の間から絞り出されるように、冷たい怒りを帯びている。
「お前の目には、俺はそれだけか?」
指先は灼熱。吐息が頬を撫でる。
澪の心臓が狂ったように鼓動する。恐怖と、名状し難い高揚。
「…違うとでも?」
開き直るように問い返す。瞳の縁が熱くなる。
「あなたがすることのすべて、支配欲と復讐心のためではないと?あなたが与えるものすべて、値札がついていて、私が代償を払うのを待っているものではないと?」
晶は彼女を見つめる。憎悪と恐怖と意地が混ざったその瞳を、激しい息づかいと共に。
突然、彼は彼女の顎を解放し、猛然と立ち上がり、背を向けた。
空気は、息を詰まらせる沈黙で満たされる。
ただ、窓の外の雨音だけが、しとしとと静寂を打ち続ける。
長い時間が流れた。
澪がもう彼は口を開かないだろうと思った時、彼はゆっくり振り返った。
怒りは消え、より深く、より複雑な闇が瞳に宿っている。
彼は彼女の前に歩み寄り、見下ろす。そして澪を完全に凍りつかせる行動に出た。
ゆっくりと、片膝を床につける。目線が、彼女の高さにまで下がる。
この服従を思わせる姿勢は、彼の驕慢なイメージからはかけ離れ、澪の心臓は止まりそうだった。
彼は手を伸ばす――彼女に触れるためではなく、膝の上で強く握り締められた**拳**を、そっと包み込むためだった。
その掌は大きく、温かく、薄い胼胩があり、彼女の冷たく震える拳を覆った。
「もし、違うと言ったら?」
声は低く嗄れ、チェロの最低弦のように、彼女の心臓を直撃した。
「もし俺が、こうするのは、五年前のように――誰かにいじめられ、反撃もできず、ただ惨めに逃げ出すお前を、二度と見たくないからだ、と言ったら?」
澪の瞳孔が大きく開く。信じられない思いで彼を見つめる。
晶の視線は強固。瞳の奥には、彼女がこれまで見たことのない、激しく渦巻く感情がある。痛み、後悔、そして…燃えるような熱。
「もし俺が、氷室悠斗と白石華蓮を見て、復讐などではなく――後悔している、と言ったら?…あの時、なぜもっと早く気づき、お前を守れなかったのか。お前一人に、これほどの重荷を背負わせてしまったのか、と。」
声はさらに低く、深くなる。一言一言が千斤の重みで、澪の砕けそうな心臓を打つ。
「もし俺が、お前を傍に留め、あらゆる手を使うのは、支配のためだけではなく、それ以上に…**怖かった**からだ、と言ったら?お前が振り返り、再び五年前のように、跡形もなく消え、二度と見つけられなくなるのが、怖かったからだ、と。」
彼女の手を握る力が微かに強まる。指先に、かすかな震え。
「望月結衣。」
彼の声は、ほとんど壊れそうだ。
「五年は、十分に長かった。」
「俺は…お前を、ずっと探していた。」
最後の一言は、嘆息のようにか細いが、雷鳴のように彼女の脳裏に炸裂した。
澪は完全に呆然とし、全身が冷たくなり、血は逆流するようだった。
眼前の晶を見つめる。その瞳にある、偽りのない、彼女を焼き尽くすような真摯さ――あるいは、これまで見たことのない、巧妙な偽装か?
彼女には判断できなかった。
理性が悲鳴を上げる:信じるな、この男は人心を弄ぶ達人だと。
だが感情は狂ったように揺さぶられる。彼の言葉に込められた、途方もない苦痛と後悔に打ちのめされながら。
五年…?彼が、私を五年も探していた?なぜ…?そんなはずが…?
彼女の瞳に映る激しい葛藤と不信を見て、晶の瞳の奥を、極めて素早く、捉えがたい暗い光がよぎった。
彼はゆっくり彼女の手を放し、立ち上がる。いつもの驕慢な態度に戻ったが、眼差しは依然として複雑で測り知れない。
「酒を飲んだら、早く休め。」
それだけ言うと、彼は寝室へ背を向けた。
澪は一人、ソファに硬直して座り、ローテーブルの上の冷めた酒を見つめる。
心は乱れ、千々に砕けそうだった。
窓の外の雨は、いつの間にか激しさを増し、ざあざあと音を立て、全世界を飲み込まんばかりに。
そして、彼女の、今まさに揺さぶられた心の防壁をも、飲み込もうとしているかのように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます