第17話 無言の硝煙
M&A会議後の数日間、篠塚澪の生活は、奇妙な規則性と張り詰めた緊張に支配されていた。
朝は氷室晶の冷たい視線のもと、彼とコウちゃんと共に朝食を摂り、そのまま彼の車で氷室氏本社ビルへ向かう。
彼女には専用のオフィスが与えられていたが、そのスケジュールのすべては秘書室によって厳密に管理されていた。
晶は、彼女を自身の意のままに磨き上げることを、まるで既定の使命のように進めていた。
核心プロジェクト、難解な交渉、極秘の資本運用——。
彼は、彼女を氷室氏ビジネスの中枢へと無理やり引きずり込む。
権限とリソースを与え、時に冷酷な「示唆」を投げかける。
だが、肯定的な言葉は一切ない。ただひたすらに、終わりの見えない高みを求め続ける。
澪は、溶鉱炉に投げ込まれた鉄のように、圧力と灼熱の中に身を置いていた。
それでも、極限の鍛錬の中で、彼女はかつてない速さで変貌を遂げていく。
どんな些細な弱さも、晶に「子供さえ見ていればいい」という深淵へ突き落とされかねない。
だからこそ、彼女は必死で学び、吸収し、己を研ぎ澄ませていった。
ビジネスの帝王としての晶の恐るべき実力を、澪は日々、間近で思い知らされる。
十手先を読み、敵も味方も駒のように操る彼。
その傍らで、澪は五年間の海外経験では決して触れ得なかった現実を学び、同時に、二人の間に横たわる巨大な溝を痛感していた。
彼女はより寡黙に、そしてより鋭利になった。
瞳から動揺は消え、晶にも似た冷たい光が宿る。
ただ、その奥底で燃える復讐の炎だけは、決して消えることがなかった。
二人の間には、奇妙な暗黙の了解があった。
会社では上司と部下。時に会議で鋭くぶつかり合う。
退社後は同じ屋根の下に暮らす他人。
コウちゃんを介して、時おりぎこちない会話を交わす以外は、冷たい沈黙が支配していた。
晶はもう「監禁」という言葉を使わない。
だが、目に見えぬ枷は緩むことなく、澪の行動範囲は会社とマンション、そして彼が許可した限られた場所だけに制限されていた。
通信も監視下に置かれ、コウちゃんとの時間すら専属スタッフによって阻まれていく。
この“普通”を装った生活は、直接的な監禁よりも息苦しかった。
ぬるま湯に浸かる蛙のように、彼女は知らぬ間に意志を摩耗させられていくのを感じる。
それでも、澪はすべての憎悪と不満を胸の奥底に押し込み、狂気じみたほどの仕事と学びの原動力へと変えた。
氷室氏内部で彼女の地位は急速に固まり、幹部たちの視線も軽蔑から畏敬、そして警戒へと変わっていく。
彼女は晶から与えられた権限を最大限に利用し、密かに策謀を巡らせていた。
氷室悠斗と白石華蓮を奈落の底へ突き落とすための証拠を、少しずつ集め始める。
晶がその小細工に気づいていることは分かっていた。
だが、彼は阻止せず、ただ冷たく傍観する。
まるで、獲物が死に際にもがく姿を静かに愉しむように——。
その日、海外鉱山の買収交渉は再び行き詰まっていた。
相手代表の態度は強硬で、一歩も引かない。
会議室の空気が重く淀み、誰もが口を閉ざす。
主賓席に座る晶は、相手の難癖を淡々と聞き流していた。
指先でテーブルを二度、軽く叩く。
そして、ふいに静かに告げる。
「リネア、どう思う?」
場の視線が一斉に、記録を取っていた澪に向けられた。
鼓動が跳ねる。晶がこのレベルの会議で彼女に意見を求めるのは初めてだった。
顔を上げる。底の見えない彼の眼差しが射抜く。
そこには励ましもヒントもなく、ただ冷たい査定と試験の意図だけがある。
これは質問ではない。試練だ。
この数日間、どれだけ吸収したかを測る“試験”——。
深く息を吸い込み、感情を殺して、傲慢な代表に視線を向けた。
「スミス様。提示された付帯条項第三項、環境責任の境界線は、三年前の旧基準に基づいています。」
声は冷静で明瞭、だが棘を含む。
「先月、国際鉱業協会が承認した改正案第七条第二項により、責任主体の認定は根本的に変更されています。旧条項に固執すれば、法的根拠を欠くだけでなく、将来的な国際訴訟と企業イメージの失墜を招くリスクが高いです。」
「氷室氏の法務チームは、すでに予防策を講じています。」
落ち着いた口調。明確な論理。
引用する条項もデータも正確無比で、相手の強硬姿勢の急所を正確に撃ち抜いた。
会議室に沈黙が落ちる。
相手代表の顔色が変わった。
ずっと黙っていたこの女が、これほどまでに鋭く核心を突くとは——。
晶の口元に、わずかに感知できるほどの微笑が浮かぶ。
彼はなお澪を見ることなく、代表に淡々と告げた。
「どうやら、交渉の基礎から再評価する必要がありそうだな。」
その一言で流れは一変した。
氷室氏は、予想をはるかに上回る有利な条件でプロジェクトを落札した。
会議が終わり、人々が退出していく。
澪が書類を整理し、立ち去ろうとしたとき——。
「残れ。」
主賓席から晶の声が響く。
彼女を見ることもなく。
動作が止まる。
人が去り、静寂の会議室に二人だけが残る。
晶はゆっくりと立ち上がり、彼女の眼前に歩み寄った。
長身の影が彼女を覆う。
何も言わず、伸ばされた指先が、耳元に落ちた一筋の髪へと向かう。
澪の体が硬直する。思わず後ずさろうとした、その瞬間。
指先は空中で止まり、次の瞬間、静かに降りた。
晶の指が摘み上げたのは、フォルダと同色の極小の金属片——。
偽装された盗聴器だった。
澪の瞳孔が収縮する。
いつの間に、こんなものが……?
晶はそれを指先で弄び、冷たく見つめた後、力を込める。
「カチッ。」
小さな音を立て、盗聴器は粉々に砕けた。
掌を開き、金属片をゴミ箱へ落とす。
そして、ようやく澪を見た。
「どうやら——」
声は低く、氷のように鋭い嘲笑を帯びていた。
「お前が敵を作る速度は、俺の想定を超えているらしいな。」
最初からすべて知っていた。
会議を進め、終わらせ、そして最後に見せつける。
彼女の行動も危険も、すべて自分の掌中にあるという冷徹な宣告。
澪はその瞳を見つめ、背筋に冷たい戦慄が走る。
——この男は、想像を遥かに超えて恐ろしい。
晶は、彼女の瞳に浮かぶ驚愕と恐怖を見て、胸の奥で燻っていた焦燥が、わずかに鎮まるのを感じた。
棘を持ちながら、それでも彼の支配から逃れられない。
その矛盾した姿——それが、彼にはたまらなく好ましかった。
「今夜、レセプションがある。」
ドアの方へ向きながら、有無を言わせぬ声で告げる。
「お前も同行だ。準備しておけ。」
ドアの前で一度だけ足を止め、振り返らずに言った。
「今夜、『旧友』に会うことになるだろう。」
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