第16話 共に進む昼食
氷室晶の執務室は、常に冷たかった。
黒胡桃の長机が堂々と中央を占め、外の街並みはガラス越しにおもちゃのように並ぶ。すべてが彼の掌の上で転がされているかのような静謐さが、室内を満たしている。
篠塚澪はその前に立っていた。背筋は伸びている——だが掌のひらには冷たい汗がにじむ。
彼女にはわかっている。これは単なる昼食ではない。氷室が仕掛ける新たな試験の始まりだ。
「食べろ」
主座に鎮座する男は、視線さえまともに向けずにそう命じた。配膳された皿は上品に並ぶが、そこにあるのは滋味ではなく刃物のような緊張だった。澪が箸を取ると、どんな佳肴も蝋の味に変わる。
「幼稚園の件は片づけた。これからは専任が送迎する」
氷室の声は低く、淡々としている。
箸先が一瞬止まる。澪は顔を上げ、彼の目を直視する。
それは気遣いの言葉か——あるいは、より完璧な監視の宣告か。
氷室がようやく視線を返す。瞳の奥に感情は読めない。
「氷室家の血筋に危害が及ぶことは、放置しない」
その一言で、澪の背筋が凍る。
彼はコウを氷室家の後継者として扱う。保護の名で与えられるものは、同時に鉄の枷でもある。
昼食の終盤、氷室は分厚いM&A資料を澪に差し出した。
「一時間で読み込め。午後の会議では、聞くだけだ」
「発言は許されないのですか?」思わず澪は問い返す。
「学べ」──氷室の口元が冷たく歪む。「真のビジネスとは何か、飢えた狼の群れからどう餌を奪うかを学べ。ここで振る舞う術をだ」
その言葉は、見えない鎖となって彼女を縛り付けた。
資料室の明かりの下、澪は頁をめくり、数字と条項の渦に身を沈める。
情報は容赦なく押し寄せるが、彼女の思考は不思議なまでに冴え渡った。恐怖は麻痺し、代わりに凍てつく覚悟が血管を巡る。
「彼のルールで学び、彼のゲームを解す」——心の奥で小さな誓いが燃え上がる。
そしていつか、同じ盤の上で彼を打ち負かすために。
午後の会議室は、氷室が帝王として君臨する舞台だった。
彼の質問は冷徹に核心を射抜き、幹部の計算と自信の隙間を次々に暴き出す。妥協はない。感情は排され、純粋な理と力だけが支配する。
ある幹部が提示した買収案に、氷室はわずかに眉をひそめる。
「その数字は希望的観測だ」彼は淡々と指摘し、一枚の資料を示す。「過去三期の実績と経営陣の能力を鑑みれば、三割減が妥当だ」
会議室の温度が一瞬で下がる。言葉は短いが重い。
澪は内心で息を呑む。彼の指摘は無慈悲だが合理的で、資料が答えを裏付けている。
ここにあるのは、感情ではなく、支配するための鋭利な論理だ。
澪は黙って観察を続けた。これが彼の「強さ」だ——言葉を凌駕する実力。
しかもそれは、彼の存在そのものが放つ掠食者の本能を体現している。
会議が終わり、幹部たちが散る。氷室が立ち上がると、その視線が何気なく澪を通り過ぎる。
彼女は動じない。もはや取り乱すことはない。あるのは、研ぎ澄まされた静かな決意だけだ。
去りゆく背中に、かすかな声が落ちる。
「第一課は終わりだ」
その小さな告知に、澪の心臓が跳ねる。第一課──彼の教育は、段階を踏んでいるのだ。教えるという名の支配が、ゆっくりと深く刻まれていく。
扉の向こうへと消える氷室の背を見送る。澪は拳を固く握る。
彼が教えようとしているのは、単なる商才ではない。彼の在り方そのもの、恐ろしく完璧な「強さ」の本質だ。
唇を噛み、澪は静かに呟く。──甘んじて囚われているわけにはいかない。
学び、奪い、そしていつか。彼が築いたルールを逆手に取り、彼自身をこの盤上で屠ってみせる。
胸の奥の小さな火が、冷たい空気の中で揺らめいた。
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