第9話 雷霆の庇護

聖心幼稚園の門前。

細やかな雨が絹糸のように降り注ぎ、世界は灰色のヴェールに包まれていた。冷たい雨粒が肩や髪を打ち、空気には湿った土と鉄の匂いが混じる。


路地の隅。黒いセダンが雨に煙るように停まっている。

車内の二人の男の瞳は異様に鋭く光り、わずかに手が震えていた。


「対象は間違いないか?『望月光希』、黄色いリュックの男児だ」

「ああ、写真と完全に一致。実行待機中だ」


一方、別の大通り。

篠塚澪の車は、雨による深刻な渋滞に完全に足止めされていた。

車内には、生きたまま凍りついたような焦燥感が充満し、窓を流れる雨粒が外界を歪める。


心臓は狂ったように鼓動し、その音がまるで警報のように鼓膜を打つ。


「運転手さん!どうかここで迂回を……!もう降りて走ります!」

「奥様、この交通状況では……!」


我慢の限界を感じた篠塚澪は、乱暴に車のドアを押し開け、冷たい雨の中に飛び出した。

ハイヒールも気にせず、水たまりを蹴散らし、ただひたすらに幼稚園へと走る。


_コウちゃん……どうか、無事でいて……!ママがすぐに行くから!_


ほぼ同時刻、黒いベントレー・ミュルザンヌが轟音を立て、交差点を割って幼稚園前へ滑り込む。

耳障りな急ブレーキの金属音が、雨音を鋭く切り裂く。水たまりを踏みつけるタイヤの音が、静まり返った街角に響いた。


ドアが開き、氷室晶が現れた。

ジャケットは助手席に投げ捨てられ、雨水に貼り付く白いシャツが鍛え上げられた体躯の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。


視線は一瞬で、路地のセダンと、車内の二人を捉えた。


「ドン!」

分厚いガラスが鈍い音を立てて軋み、雨音の中に鋭い衝撃が混ざる。


「降りろ。」

低く、しかし絶対的な命令。周囲の空気まで震えるような威圧感があった。


晶は素早くアンロックされていない運転席のドアをこじ開け、中にいる男の腕を掴み、一気に車外へと引きずり出す。

男は驚きの声もあげられず、ずぶ濡れのアスファルトに無様に転がされた。水しぶきが周囲に舞う。


「ひ、氷室……社長?!?!」

男の顔面から一瞬で血の気が引き、体が硬直する。


晶は片足を軽く男の胸元に載せる。

「誰の指図だ?」


「ふ、氷室部長……氷室悠斗様です……!」

男の声は震え、雨音にかき消されそうなほど弱々しい。


晶の瞳の奥で、荒れ狂う嵐が一瞬にして一点に収束した。

深く、暗く、溶解しない闇のようだった。


_果たして、お前だったか、悠斗……!_


その時、幼稚園の下校チャイムが雨音に混じり、心躍る音色を響かせた。


晶は切迫した眼差しで、門から溢れ出す子供たちの群れを必死に捜索する。

小さな黄色いレインコートが、雨に濡れて鮮やかに光って見えた。


コウちゃんは、おとなしく門柱の傍らで待っていた。

恐怖というより純粋な好奇心で、周囲の異様な光景を見つめている。


晶は子供が無事なことを確認した瞬間、喉の奥の張りが解け、言い知れぬ安堵と激しい保護欲が胸を満たした。

彼は周囲に放つ凶暴な気配を抑制し、大きく息を吸って門へ歩み出す。


「コウちゃん。」

彼はかがみ込み、視線の高さを子供に合わせた。

その声には、これまで誰にも向けたことのない、わずかな温もりが帯びていた。


「おじちゃん?どうしてここにいるの?ママは?」


「ママはね……ちょっとした用事で、すぐに来るよ」

晶は胸の奥に押し込んだ怒りを必死で抑え、声をさらに柔らかくした。


「おじちゃんが、一緒にママを待ってあげようか?」


「うん。おじちゃん、ずぶ濡れだよ。」

その純粋な言葉が、彼の内心の嵐を一瞬で静めた。


その瞬間、背後から切迫した声が響いた。

「コウちゃん!」


篠塚澪は、全身ずぶ濡れで、顔色は蒼白となり、狂ったように門へ駆け寄る。

我が子の無事を確認すると、胸を押さえ激しい息を荒げ、安堵の涙が雨水と混ざり合った。


彼女は息子をぎゅっと抱きしめ、遅れたことへの後悔と、起こりえた最悪の事態への恐怖で全身が震えた。


ゆっくり顔を上げ、かがみ込む晶と視線を合わせる。

その眼差しには、深い感謝、混乱、そしてまだ消えない恐怖が入り混じっていた——なぜ彼が?彼は本当に……?


晶はゆっくり立ち上がる。

濡れた白いシャツが体に密着し、力強い体躯のラインを浮かび上がらせる。


彼の瞳の奥で、怒りや猜疑心は冷たい雨の中で溶解し、代わりに彼女の無防備な姿に対する強烈な保護欲へと変貌した。


「もう済んだ。」

声は低く、揺るぎない安定感を帯びる。

「あの虫けら共は、始末した。」


篠塚澪の心臓がドクンと高鳴る。「だ、誰が……?」


晶は答えず、自分が羽織っていた高級ウールのジャケットを脱ぎ、ずぶ濡れの澪の肩に羽織らせた。

ウールは雨を吸った肌とは対照的にまだ暖かく、瞬時に冷えた身体を包み込む。


「着ていろ。」

肩を軽く、しかし逃げられない力で押さえつける。

彼の指先から伝わる熱と確かな感触。その口調は、事実を告げるように断固としていた。


「今日から、お前たち母子は、俺が引き取る。」


彼は反論の余地を与えず、コウちゃんを抱き上げ、もう一方の手で澪の手首をしっかり握る。


「俺とお前の間には、きちんと話し合わなければならないことが、いくつもある。」

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