第8話 青萍に起こる風

汐見東部地塊の入札日。空は鉛色に曇り、重い湿気が張り詰めた空気を覆う。


会場には、無言の殺気が漂っていた。


氷室悠斗は最前列に座り、高価なスーツが冷汗で張り付く。この土地は、氷室氏における彼の命運を握る。


絶対に……あの女には負けられない!


篠塚澪は遅れて現れた。白いスーツは冴え渡り、表情は静かだが、瞳の奥には徹夜の疲労が潜む。コウちゃんの病、晶の誤解——全てを押し殺して、この場に立つ。


視線が悠斗と一瞬交錯する。彼の目に狂い咲く敵意を見て、澪は心底で冷笑した。


見ていなさい、氷室悠斗。これが私の……“帰還”だ。


入札は苛烈を極めた。


「瓔珞」が提示した価格に、場内がどよめく。悠斗は安堵し、挑発的に澪を一瞥した。


そして「涅槃」の番。


澪が立ち上がり、提示した金額は——瓔珞を、わずか一線で上回るものだった。


悠斗の顔から、血の気が一瞬で引いた。


落札が決まるかと思ったその時、澪は再び手を挙げた。


「審査員各位。最終決定前に、追加資料をご高覧ください」


アシスタントが配布する資料を、悠斗が手に取る——


土壌・地下水質、追加環境評価報告書。


“過去の化学工場による深刻な汚染……浄化コストは莫大”


悠斗の手が震えた。「……あり得ない!これは偽物だ!」


彼は叫びながら立ち上がる。しかし、報告書に記された権威ある機関の印は、彼の叫びを無力にした。


澪は静かに彼を見下ろす。その目には、冷ややかな憐憫さえ浮かんでいる。


「氷室部長。貴社の事前調査に……甘さはありませんでしたか?」


審査員たちの顔色が険しくなる。汚染が事実なら、この土地は負動産だ。


結果は明白だった。


「涅槃」の勝利。


悠斗は椅子に崩れ落ちた。眼前が真っ暗になる。嘲笑と非難の声が、遠くから聞こえてくるようだ。


澪は契約を終え、真っ先に会場を後にする。彼に最後の一瞥も与えずに。


センターを出れば、冷たい雨が降り始めていた。


車中、澪の張り詰めた糸がふと緩む。スマホのコウちゃんの写真を見つめ、一瞬だけ表情を柔らげた。


その時、新着メッセージ。


【氷室悠斗の手の者、幼稚園を特定。本日、接触を試みる可能性。至急、対応を。】


澪の瞳孔が収縮する。


勝利の熱は一瞬で消え、絶対零度の恐怖が血管を走る。


まさか……コウちゃんに直接……?!


「会社には行きません!聖心幼稚園へ……急いで!」


氷室氏社長室。


氷室晶は窓の外の雨を見つめ、夏目秘書の報告を聞いている。


「……リネア様の落札が確定しました。氷室部長は……失態を演じました」


「ああ」


晶の返事は淡々としている。


「それと……」秘書の声が潜む。「部長が雇った者たちが、今日午後……聖心幼稚園に向かう模様です」


晶の指の動きが断絶した。


空気が刃物のように鋭くなる。


「いつの情報だ」


「十分ほど前です。相手が慎重で、目標の確認に時間が……」


晶は振り返る。その目は暗闇そのものだ。


ジャケットとキーを掴み、彼は執務室を蹴り出す。

「車だ!幼稚園へ!」

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