第10話 無声の驚雷

氷室晶のマンションは、最上階から街の灯りを独占していた。

内装は究極のクールモダン。黒、白、グレーを基調とし、高価な家具が整然と並ぶ。だがどこか無機質で、まるで人間の生活感を意図的に遮断した博物館のような冷たさが漂っていた。


リビングの巨大な掃き出し窓の外では、激しかった雨が小康状態になり、濡れた街路のネオンがぼんやりと滲む。水滴に反射する光は、幻想的な絵画のようで、澪の心をかき乱した。


コウちゃんは新しいブランケットに包まれ、本革ソファの上で小さく丸まっていた。温かい牛乳をすすりながら、この広大で静謐な空間を、好奇心と少しの不安でそっと見渡す。


篠塚澪はリビング中央に立った。

肩にはまだ、氷室晶の分厚いジャケットが掛かっている。男性の体温と微かに杉の香りが混じり、無言の圧力のように澪の神経を侵食する。


お前は、俺の管理下にある……

数十時間前のあの言葉が、耳に焼き付いて離れない。

理性で抗おうとしても、心の奥では無力感と混乱が絡み合い、足元がふらつく。


氷室晶は静かにクローゼットルームへ向かい、間もなく濃いグレーのルームウェアに着替えて戻ってきた。その手には真新しい女性用のルームウェアと柔らかいバスタオルが握られている。


「ゲストルームで温かいシャワーを浴び、濡れた服を着替えろ」

命令形の口調は冷たいが、その手のひらから伝わる熱で、少しだけ安心感が混じった。


澪は黙って衣類を受け取り、かすかに震える声で「……ありがとうございます」と呟く。

体は冷え切っている。呼吸も浅く、胸の奥に重く澱む感情が渦巻く。


湯船から溢れる温かいシャワーは、身体を包むが、心の奥に巣食う恐怖と混乱は、容易に溶けない。

ルームウェアは驚くほど身体にぴったりで、カシミアの肌触りは心地よい。

なぜ彼は、ここまで私に合わせた服を用意しているのだろう?——疑念と不安が胸を締めつける。


髪をタオルで拭き、ゲストルームから出ると、晶の姿はリビングにない。

コウちゃんが小さく声をかけた。「ママ、おじちゃんはあっちの部屋に行ったよ」

書斎を指さす小さな手に、澪は一瞬ためらったが、恐る恐る足を向ける。


書斎のドアは半ば開いており、中から低く抑えた声が漏れる。

「……きちんと始末しろ。二度と、あの子供に指一本触れさせるな」

「氷室悠斗には、本家に戻って私を待つように伝えよ」


その言葉に澪は背筋が凍る。

恐怖と理性の狭間で、身体は無意識に一歩引き、手はわずかに震えた。


書斎内を覗くと、晶はデスク前に立ち、深青色のファイルを開いている。

最上面には【DNA鑑定報告書】と鮮明な文字。

その傍らには数枚の写真――一枚は幼稚園で無邪気に笑うコウちゃん、もう一枚は十代半ばの晶、バスケットユニフォーム姿の反抗的な笑み。


澪の呼吸が止まった。

目の前の現実が、理性を踏みつける。

あの目元、笑った口元、そして輪郭……コウちゃんと瓜二つ……!?


五年前のあの夜、暗闇に隠れた混乱の記憶が、鮮やかに甦る。

胸の奥が締め付けられ、視界が揺れる。


「……まさか……あなただったの……?」

声にならず、唇が震える。


晶の長身がドア際に現れ、光を遮った。

沈黙が重く、澪の呼吸を奪う。

深く冷たい瞳が、震える澪の心を一瞬で読み取った。


彼はゆっくり歩み寄り、書斎のドアを閉め、世界と隔絶する。

そして、低く嗄れた声が、廊下の静寂に響いた。


「今なお、彼が氷室悠斗の子だと言うのか、望月結衣?」


澪は無音の雷に打たれたように硬直する。

血液が逆流し、鼓動が耳元で轟く。

心の全防壁が、瞬時に打ち砕かれた。


晶は澪の腰をしっかり抱え、立ち尽くす彼女を支える。

掌は温かく、薄いルームウェア越しに伝わる触感が、冷え切った心を震わせる。


「……あの夜……あなた……だったの?」

澪の声は震え、喉を通るまでに時間を要した。


「ああ」

晶の声は揺るがず、確信に満ちていた。

もう一方の手で、親指の腹でそっと澪の頬を撫で、溢れた涙を拭う。

その動作には、抗えぬ独占欲と守護の意思が込められていた。


「今、私の質問に答えろ。彼は誰の子だ?」


澪は目を閉じ、深呼吸をする。

再び開いた瞳には、絶望と麻痺、しかしかすかな安堵も混じっていた。


「あなたの……」

全身の力を振り絞り、震える声で続ける。

「……彼は、あなたの息子です」


胸の上の巨大な岩が一瞬で取り除かれたように感じる。

同時に、未知の重圧と息苦しい恐怖が心を満たす。


晶は澪の顎を一瞬強く掴み、深い衝撃と激しい感情を胸に感じる。

怒り、独占欲、予想外の高揚――すべてが交錯した。


「結構だ」

声は冷たく無表情。しかし空気は一層威圧的に震える。


晶はそのまま澪の腰を抱え、半ば強制的にリビングへ導く。

コウちゃんはソファに座り、小さな声で尋ねる。「ママ、どうして泣いてるの?」


澪は急いで晶から離れ、息子を抱きしめたい衝動に駆られる。

だが晶は動じず、抱きかかえる力は絶妙で安定していた。


彼は子供を見つめ、低く、明確な声で告げる。

「パパと呼べ」


澪は息を呑む。コウちゃんも当惑した表情で、母と晶を交互に見つめる。


「私がお前のパパだ」

晶の口調には冗談も曖昧さもない。

「今日から、お前の名字は氷室だ」


澪は全身を震わせ、駆け寄り息子を抱きしめようとする。

「氷室晶!やめて!怖がらせないで!」


しかし晶は、素早くコウちゃんを抱き上げ、澪と子供を包むように立つ。

その静かな支配と温もりが、恐怖と安心、威圧と愛情を同時に伝える瞬間だった。

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