第6話 猜疑の亀裂

氷室晶のあの視線——裏切られた獅子のそれが、澪の脳裏を焼きついて離れない。


彼は、コウちゃんを悠斗の子だと思い込んだ。


この誤解が、復讐の道を塞ぐだけでなく、最凶の敵を生み出すかもしれない。


コウちゃんの熱は下がった。しかし澪の不安は、闇のように深まる。


夜明け前、匿名メールが届く。【悠斗、動く。既に疑念を抱く。】


ファイルには、悠斗が私立探偵を使い、コウちゃんの幼稚園周辺まで嗅ぎ回っている記録が。


悪寒が走る。


悠斗は本能で、彼女の最大の弱点に気づいた。


そして晶——もし彼が誤解から、悠斗の行動を黙認でもしたら?


澪は震えた。今すぐ、晶の誤解を解かねば。


氷室氏グループ最上階。


晶は報告書を握りしめていた。【父親欄:空白。氷室悠斗の関与、極めて高い可能性。】


「極めて高い」


この文字が、焼けた鉄のように胸を焦がす。


彼女のすべての行動——接近、利用、そして昨夜の脆さ——全てが、あの男との結晶のため?


愚弄されたという怒りが、理性を押し潰す。


「社長、リネア様がお見えです」


秘書の声に、晶の瞳に冷たい火が灯った。


よくも、来たな。


「通せ」


執務室のドアを開け、剣呑(けんのん)の空気が澪を包む。


晶は窓際に背を向けて立つ。その背影は、絶壁のようだった。


「用件は?」


振り返りもせず、冷たい声が響く。


「説明に参りました」澪は平静を装う。「昨日の——」


「説明?」晶がゆっくりと振り返る。その目は、万年の氷のようだ。「お前が、どう俺を騙し、あの子を連れて舞い戻ったか、の説明か?」


「コウちゃんは、悠斗さんの子ではありません」


晶は嘲笑した。一歩、また一歩と近づく。その足音が、澪の神経を踏みしだく。


「では、誰の子だ?五年で、随分と嘘つきになったな、望月結衣」


彼は見下ろし、品定めするように彼女を見た。


「出生証明書が必要か?喪家の犬のように逃げ出したあの日を、思い出させてやろうか?」


「晶!」澪の声は詰まった。悔しさで瞳が熱くなる。「私を疑うのは構わない!だが、子供を貶すな!彼は……私の唯一の——」


「唯一の何だ?」晶の声は鋭く裂ける。「駆け引きの道具か?絆か?それとも——俺への脅しか?」


その言葉の残酷さに、澪は凍りついた。


「違う!あなたは何も……!」


言いかけで、彼女は唇を噛んだ。


言ってはいけない。あの夜の真実は、墓場まで持って行く秘密だ。


その躊躇が、晶には嘘の証と映った。


彼の瞳に、最後の微光さえ消えた。残ったのは、絶対零度の失望だけ。


「どうした、続けろ」彼は冷たくあしらう。「作り話が、続かないとでも?」


見下すようなその眼差しに、澪は全てを悟った。


……何を言っても、無駄だ。


彼女は一歩下がり、背筋を伸ばした。全ての感情を、心の奥底の檻に閉じ込めて。


「お邪魔しました」


声は驚くほど平然としていた。彼女は振り返らず、ドアへ歩き出す。


手がドアノブに触れた時、背後から晶の声が響く。


「その汚い企みを、氷室氏に巻き込むな。……消えろ。」


澪の背筋が一瞬、硬直する。だが、彼女は振り返らなかった。


ドアが閉まる。


ガラーン!


陶器が粉々に散る音が、執務室に響き渡る。


晶は荒い息を吐く。脳裏に焼き付くのは、彼女の全てを諦めたあの瞳だけだ。


クソ……!


なぜ、あんな目を……!


エレベーターの中で、澪は鏡に映る青ざめた自分を見つめる。


一滴の涙が零れる。すぐに拭い去った。


説明は失敗。状況は悪化した。


彼と彼女の間には、修復不能の亀裂が走った。


そして悠斗の疑念は、コウちゃんの頭上にぶら下がる刃。


澪は冷たい壁に寄りかかり、目を閉じる。


……急がねば。

晶の忍耐が切れる前に。悠斗が真実に辿り着く前に。

……奴らを、完全に、叩き潰さねば。

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