第5話 無声の驚雷
モンブランの万年筆は、ハンドバッグの中で重くのしかかる。晶の烙印のようだ。
「お前は、俺の管理下にある」
あの言葉が耳裏で鳴り止まない。支配と占有——その危険な甘さに、澪は苛立ちながらも、ほんのり高揚していた。少なくとも、最大の障害は道を開いた。
その時、スマートフォンが炸裂した。
コウちゃんの幼稚園から。
“コウちゃんが高熱で痙攣!救急車で汐見第一病院へ!”
頭が真っ白になる。血液が逆流する。
「今すぐ行きます!」
声は震え、バッグも忘れ、車のキーだけを握りしめオフィスを飛び出した。
救急室の混乱の中、澪は我が子を見つけた。
火のように熱い小さな体。朦朧とした意識。
「コウちゃん!」
彼女は駆け寄り、その灼熱の手を握った。心臓を氷の手で握りつぶされる痛み。
「急性肺炎による高熱性けいれん。入院が必要です」
医師の言葉を聞きながら、澪は麻痺したように手続きへ向かう。この街で、彼女は孤島だった。
個室に移り、点滴が落ち始める。
澪は虚脱して椅子に崩れ落ち、息子の手を握り、無音の涙を流した。恐怖と後悔が、彼女を完全に飲み込んだ。
氷室晶は多国籍会議の最中だった。
私用スマホが光る。秘書からのメッセージ。
【リネア様の息子さん、急性肺炎で入院。容態は軽くありません。】
晶の指が止まった。
……息子?
彼女に、子供が?
氷室悠斗の顔が瞬時に脳裏をよぎる。時期が符合する。
すると、氷で覆われた針のような、鋭く不快な感情が心臓を刺した。驚愕、怒り、そして——まだ自覚されざる嫉妬。
「会議は中断だ」
彼はビデオを切り、ジャケットを取ると、部下たちを呆然とさせたまま去った。
病室で、澪がタオルで息子の額を拭っていると、背後に影がさした。
強烈な気配。
振り向く。氷室晶が立っていた。
スーツ姿は病室に場違いで、彼の視線はまず、熱にうなされる子供を捉えた。その目元、眉の形……
晶の瞳孔が、かすかに収縮した。
視線は次に、澪へ移る。乱れた髪、腫れた目、涙の跡——彼女の最も無防備で脆い姿。
空気が凍りつく。
澪の心臓が狂ったように鼓動する。
なぜここに? なぜ知っている? コウちゃんを見られた……!
計り知れない恐怖が彼女を襲う。正体を暴かれた時よりも、深い恐怖。
彼女は無意識に体をかばい、息子を隠そうとした。母の本能。
晶はその一連の動きを目に焼き付け、瞳の色を暗く深く変えていった。
彼は一歩踏み出し、彼女を無視して、ベッドにさらに近づいた。
近くで見る子供の顔は、幼き日の氷室悠斗の面影と、薄く、しかし確かに重なる。
“氷室悠斗の子だ”
その確信が、周囲の空気を一瞬で氷点下に変えた。
澪は震え、誤解に気づき、否定しようとした。
「違う、彼は——」
「黙れ」
晶の声は低く、怒りで震えていた。 彼の目は彼女を貫き、心の奥まで見透かすようだ。
「俺に隠すとは……なかなかだ」
その視線は再び子供へ向かい、残酷な品定めのようだった。そして澪に戻り、骨髄まで凍りつく冷たさで言い放った。
「まずは、しっかり面倒を見ろ」
彼は振り返り、ドアをバタンと閉めて去った。
澪はその場に立ちすくんだ。
彼は、コウちゃんを悠斗の子だと思い込んだ。
彼の目にあった失望と怒りは、無数の針となって彼女の心を千切り裂いた。
なぜ……こうなってしまったのか?
病院を出た晶は、車のハンドルを思い切り殴りつけた。
耳障りなクラクションが響く。
コウちゃんの顔、澪の青ざめた顔——それらが脳裏を焼き付く。
名状し難い怒りと、自分自身も嫌悪するほどの焦燥が渦巻く。
スマホを取り出し、命令口調で指示を飛ばす。
「望月結衣の息子について——出生から現在まで、すべてを調べろ。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます