第3話 過去の恋心。
国語科準備室前。
「失礼します」
俺は担任に言われるまま、終礼時不在だった副担任に会うために、国語科準備室の前に来ていた。夏が近づき、入学して間がない、というわけじゃなかったが、国語科準備室がどこにあるか知らなかった。
ノックをして扉を開くと、そこは準備室とは名ばかりの、ちょっとした物置、倉庫と何ら変わらない。唯一違うとするなら、わずかにコーヒーのいい匂いがした。
「悪いね、わざわざ足を運んでもらって」
先生は白いブラウスにグレーの窮屈そうなスカートで、授業中は後ろに束ねている髪を解いていた。少しクセっ毛で髪が緩やかに波打っていた。その波打った髪を軽く整える。クセ毛がややきになってる感じだ。
「私ので悪いが、ちゃんと洗ってる」
白い陶器のマグカップ。淵がピンクのマグカップ。先生はインスタントコーヒーを俺に差し出し、座るように――そんな素振りをする。俺がきょろきょろしながら座ると、自分も同じ形で淵が青のマグカップにお湯を注ぎ、向かい合って座ることになった。
国語科準備室は俗に言う部活棟という、文化部の部室が集まる一室にあった。本来は全学年の国語教師が使うのだろうが、場所が職員室から遠く、見た感じ日常的には先生しか使ってないように見えた。
先生は自分の青い淵のマグカップを端に寄せ、乾いたふきんで机を拭いて、さも大事そうにある紙切れを取り出した。それは俺が授業中に書いた例のわら半紙の感想文。
なにか注意されるのかも知れない。そんな警戒心はほんの少しあったが、先生の表情は人を注意や指導しようとする感じはなかった。
「えっと……何でしょう?」
「き、君にはその……物書きの才能があると思う。その……小説を書いてみないか? なに、わからないことがあれば私が教える、どうだろう?」
先生は食い気味に口を開き、座っていた回転椅子を軋ませ立ち上がった。少し恥ずかしくなったのか「すまない」と小さく呟き、椅子に座りなおした。
正直なにを言ってるのかわからない。今まで、文章なんて書いたことはないし、課題の感想文だって、原稿用紙3枚以上とあれば、ぎりぎり3枚書くようなヤツだった。それに読み掛けて途中で投げ出した小説なんて、山のようにある。
「えっと……どうして?」
先生の手に握られたわら半紙に目を移すが、その小さな紙切れに意味なんてない。
「き、聞いたんだ、担任の先生……坂口先生に」
「吉田です」
「あぁ……そうだったか? そうかもな」
慌てて取り繕う。恐らく、先生は担任の吉田にまるで関心がないらしい。残念だったな、吉田。若くてかわいい新任の国語教師はお前に興味がないらしい。しかも副担任なのに。
「で、その坂口先生がどうしました?」
「そう、坂口先生に聞いたんだが――うぅ……君は案外意地が悪いな、しょうがないだろ、学校は先生だらけなんだから……」
それはそうだが、担任と副担任の関係なので覚えた方がいいと思う。少し拗ねてそっぽを向く、先生という人種も意外にかわいいところがある。
「すみません、それで?」
年上の女性、それも教師を一瞬でもかわいいと思ってしまった。上目使いで睨まれた。もし姉なる存在がいたらこんな感じなのかもな、まぁ姉がいるヤツらはその存在を恐怖の支配者のようにしか言わないが。
「あぁ、そうだ! その聞きに行ったんだ、坂口……吉……?」
「吉田です、先生。担任の名前はクイズじゃないです。あぁ、いいです。言い訳のくだりは長いでしょうから」
つい、軽口を叩いてしまった。照れ隠しにふたりは目の前のマグカップに口をつけた。
「聞きに行ったんだ、君のこと。部活動とかしてないのかって」
部活動と聞いて、俺は少し心のどこかでチクリとした。だから言われる前に先に言った。人に言われるより自分で言う方が何倍もいい。
「ケガしたんです、よくあることです。その事は、ほら……いいじゃないですか」
「うん、すまない。その……よくなかった。人には触れられたくないこともある」
その言葉は意外だった。大人がこんな子供相手に、今みたいな相手を思いやる言葉を使うなんて、俺の育った環境ではなかった。だから、どこかでほんの少し気を許していたのかも知れない。いや、少し違うか。気を許したいと感じたんだ。
「つまり、先生は部活を辞めて暇してる俺に小説でも書かないかと?」
「うん! そうなるな」
胸の前で手を組み、勢いよく立ち上がった先生は、間違いなく俺の目にはかわいく映った。
放課後。俺は国語科準備室に通うようになり、先生の言われるままに思うことを思うように書く日々が始まった。表向きは補習と言っていた。実際、勉強も教えてもらったし、小説とは呼べない物も書いたりもした。
書きあがる都度、先生は目を通し「いいじゃない」とか「そういう意味か」とか、肯定的な感想をくれた。そのことがどこかで、すごく楽しく先生との時間はあっという間に過ぎ去った。季節が過ぎ、年を越しても先生との師弟関係とも呼べる関係は続いていた。
そんなある日、先生からある提案をされた。
「山県君。次作のお題なんだけど、どうだろ……いまこの時しか感じられない事を題材にするのは」
「いまこの時ですか? 具体的には? 季節のことですか?」
「季節と言えば季節なんだけどね、君の今という季節は2度ない。青春という季節だ。駄洒落じゃないんだが、期せずしてその君の貴重な青春という時間を共にしている私からのお題はズバリ『恋』だ。これまで何話かの話を読まして貰ったが、君は意図して恋やら愛やらを遠ざけてるように思える。気恥ずかしさもあるのだろうが、そのことから目を逸らしてはいけないよ」
「恋ですか」
「恋だ」
先生がこう切り出した理由もなんとなくわかった。というのも、あの時のような、あの授業で書いたわら半紙に向かって刻み込むような感情は、あれ以来一度もない。先生がいうように、俺は恋だの愛だの人の気まぐれな感情に振り回されたくなかった。
そういう人に振り回される日々なんて、家で十分過ぎる程味わってる。だから、気乗りがしなかった。感情を露わにするようなこと、他者を巻き込むような事を、巻き込まれるようなことは、出来るなら避けて通りたかった。
でも、どこかで隠しきれなくなっていた。先生は気付いていないだろうが、俺はいつの頃からか先生に好意を抱いていた。それはまさに恋心と呼んでいいだろう。そしてふと思いついた。先生に向けた恋心を話にしようと。
それからは、時間を忘れて国語科準備室のパソコンに向かい続けた。先生に対する恋心を描き続けた。前もって、この話は完成するまで見ないで欲しいと言っていたし、先生はその事を快く受け入れてくれた。
季節は過ぎ去り、冬が終わりを告げ、先生に対しての恋心を描き終える頃には春を迎えようとしていた。
三学期がもうすぐ終わるというある日、俺は完成した恋文を先生に見せた。先生はすぐにその話が自分に向けられた物だと気付いたようで「恥ずかしいなぁ」「でも嫌ではないよ、誤解しないでほしい」と珍しく照れ臭そうに付け加えた。
俺はその頃何度も先生と自分の年の差を計算したり、どうしたら迷惑が掛からないだろうかとか、先生には恋人はいないのだろうかなどと、考える日々を送って迎えた2年の始業式、先生は転勤して行った。
話す時間もないまま。俺はどこかで、俺の気持ちを露わにすることで先生を遠ざけたのではないかと後悔した。
それでも残念ながら日々は続く。先生が居なくなって、今どこで何をしているのかわからなかった。学校に聞けば移動先の学校を知ることが出来たかも知れないが、しなかった。もし会いに行って拒絶されるのではないかと、俺の書いた恋文が先生を遠ざけたのではないかと恐れた。
忘れたいから、女子と軽口を叩き、表面的な平穏を装った。そんな自分へのごまかしがうまく行きかけた、そんなある日、俺の前に突然現れた先生の従妹であり、義妹の
▢作者より▢
次章へ進む前に心からの御礼を。
アサガキタ。
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