第15話 ああいう立ち方をする人

 2023年9月23日 午後6時18分


 湿った空気が光をぼかす。まず退路と死角を確認する。出口は二つ、店員の視線は流動的だ。


 左頬の痣はXLのグレーパーカーの立て襟で隠す。袖には古い血のシミ。手は紙で荒れているが、震えはない。


 あたし、中野麻衣は現場担当。今日は見張りと女子の安全オペレーションの日だ。


 大型家電量販店の無料コンセント。隣で、花音さんがくすんだ紫のダブルボタンコートの袖を少しめくり、旧型のスマホを差し込む。


 日本人離れした整いすぎた顔立ちに、大きなヘッドホンが逆に目立つ。切り揃えられた栗色のボブ。灰紫の瞳は光を吸い込むようだ。胸元の小さな鍵のペンダントが、コートの内側で微かに鳴った。


 あたしは隣で古いガラケーを差す。店内スピーカーからは昔のラブソングが流れている。どうでもいい。


「花音さん、充電、久しぶり?」少し遠慮がちに聞く。最初の出会いで失敗してるから、まだちょっと慣れない。


 花音さんは小さく頷いた。黒い画面に青いバッテリーマークが灯り、1%から2%へ。その青が瞳の奥に薄く映り、彼女の纏う空気が少し和らぐ。


「これで〈みんな家族〉に写真、送れるね」軽く冗談を言う。口は開かないが、目は「うん」と語っていた。


 電源を入れたのだろうか、ケーブルを握ったまま画面を見つめている。そのとき、短い振動と通知音。差出人は名前なし、黒いアイコンだけ。本文は灰色に潰れて読めない。


 彼女のまつ毛が一度、わずかに揺れ、息が細くなるのが伝わってきた。


 あたしは聞かない。守る側は、聞かないと決めている時がある。


 花音さんは画面を伏せ、静かにケーブルを抜いた。青は消え、黒に戻る。空いた差し込み口を指で示し、順番待ちの少年へ目で促した。少年は目だけで「あ、ありがとうございます」と返す。プラグが差し替わった。


 あたしは外したケーブルをくるりと巻いて、花音さんのポケットへ戻してやる。視線だけの「うん」が返ってきた。花音さんは、声より温度で合図する人だ。


 小さく、囁きが落ちた。たぶん、「……麻衣ちゃん」と口が動いた。それだけで、充分だった。あたしは頷く。


「大丈夫。ここはあたしが見張ってる」


 広場へ戻る。街灯が切れた一角、ブルーシートの影に毛布の塊がひとつ増えていた。


「毛布プラス1、紙コッププラス2。寒がり優先」美咲が短く指示を出す。「……うん」翔太が湯を半歩寄せ、コップを二つだけ列の手前にずらした。縁の雫を指で拭い、こぼれ止めの角度を作る。


 花音さんは無言で×印の包みをひとつ増やし、コップの縁を二度、コツン。視線で(ここ)と指した。「ここ、風が当たる。毛布、二重に」あたしは毛布の端を折り、膝にかける。


「麻衣、風よけ半歩ずらそう」と美咲。「了解」段ボールをL字に組み直し、結束バンドで固定する。翔太がテープの端を押さえた。


「……ありが」花音さんの唇だけが形を作って止まり、代わりに指先で包みの角をトンと叩く。あたしも一度うなずいた。


 朝刊トラックのライトが路地の割れ目をかすめ、細い雑草を銀色に染める。踏まれても折れない茎。


 たぶん、花音さんはああいう立ち方をする人だ。


「配膳、回すよ」美咲が列を開き、あたしは位置を半歩詰める。湯気が合流し、温度がひと目盛り上がった。

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