第14話 師匠の口癖
2023年6月18日 午前4時22分
薄闇に息を吐く。僕は紙コップを数え、手の中のぬるい温度で心を落ち着ける。袖の長い黒フードが掌を覆い、靴底で段ボールが小さくきしんだ。田村翔太。雄太さんの妹を除けば、この界隈ではたぶん最年少だ。
大きい声は苦手だから、配る順番とこぼれ対策は僕の仕事。数は二十……いや、十九と半分。ブルーシートはぎゅうぎゅうで、湿ったビル風がポットの湯気を押し戻してくる。
自販機の白い光が顔の稜線を薄く削り、地面の下でサブウーファーが小さく唸っている。
良弥君はいつものタータンのマフラーをゆるく巻いたまま、空のペットボトルを指でくるりと回し、ぽつりと言った。
「俺の師匠がさ。よく三つだけ言ってたんだ」
伸びかけた手がいくつか空中で止まる。(出た、謎の師匠)僕は手を止めずに聞き耳を立てる。
「まず一つ目。『私のようになれ』って」
「いやいや……だから誰だよ、その師匠(笑)」ケンジさんが口角を上げ、輪に小さな笑いが走った。
僕は小声で漏らす。「……なれって言われても、そもそもどんな人かわかんないし……」
良弥君はなぜか同意するように頷き、肩をすくめた。
「たぶん、師匠を真似ろってことじゃなくてさ。『自分の芯で生きろ』って意味。腹が鳴ってる自分に正直でいろ、みたいな」
「暗号かよ。余計わかんねえ」ケンジさんが笑う。その謎すぎる解釈に僕も釣られて、喉の奥だけで笑った。
花音さんのまつ毛が一度だけ伏せられる。僕は横目で確認しながら紙コップをそっとずらし、彼女の足元にこぼれない角度を作った。
「……ありが……」花音さんの唇が形だけ作って止まる。代わりに、コップの縁を二度、コツンと。僕たちの「ありがとう」の合図だ。
美咲が「ケンジ、翔太、突っ込んだら負けだよ」と笑い、肩で合図してくる。
「二つ目。『困ったら、愛を選べ』」僕も周りも同じ反応を示したが、良弥君は淡々と続ける。
「たとえば、最後の一個を誰に渡すか迷ったら、寒い方へ。殴られたらどうするか迷ったら、殴り返さない方へ。自分のためより、誰かのためが勝ってる方」
麻衣が眉をひそめる。「愛って、恋愛のこと?」声は小さいが、麻衣の言葉はいつも刃の背のようにまっすぐだ。
「わからん。けど師匠は、だいたいそういう選び方をしてたな。結果として、その場が生き延びる方を選ぶ、って感じ」
なぜか満足そうに言う良弥君の、答えになっているようでなっていない答えを聞きながら、僕は親指で×印の包みの角をなぞる。いない誰かの分だ。花音さんがそれを見て、包みを僕の手から受け取った。指先が一瞬触れる。彼女は包みの角をほんの少しだけ直した。理由もなく、心が跳ねた。
「……それ、今いない人の分、ね?」と彼女が細い声で言う。
「……うん。後で来るかも、だから」僕も小声で返す。僕たちの声は湯気に混じってすぐに薄まった。
雄太さんは空を見上げた。短い前髪の色だけが薄く、拳のこぶが白く光っている。ポケットの中で親指がスマホを撫で、左右違いのスニーカーのつま先が落ち着かずに床を叩く。僕は視線を落として、コップの縁の雫を指で拭った。たぶん、妹さんのことを思い浮かべているんだろう。僕は気づかないふりをした。
良弥君は胸ポケットの薄いメモを指で撫で、三本目の指を立てた。「最後。『ずっと一緒にいる』」
一拍おいて、いつものわかりづらいまとめが来る。「つまりさ、同じ方向を向いて歩くってこと。距離があっても、ほら、夜に同じ北の空を見て歩いてたら、線がそのうち交じる……みたいな。いや、交じるっていうか、重なる? 合流? うん、そんな感じ」
僕は思わず口を開いた。「それって平行線だから交じらないよ」
輪に小さく笑いが走る。美咲が肩で合図して、柔らかく補足した。「たぶんさ、『隣を見ればいる』ってことでしょ。向きが同じなら、離れてても同じ景色を見てる。だから、ここにいる」
良弥君は親指で胸ポケットをトンと叩き、どや顔を見せる。「それな。つまりそういうこと」
花音さんはマフラーの端をそっと握り、紙コップの縁を二度、コツン。僕らの「わかった」の合図だ。
僕は花音さんの横顔を見る。マフラーの端を静かに握る手。布越しに、誰かの声の温度を探しているようだ。
ふと麻衣と目が合うが、一瞬でそっぽを向く。口元が緩んでいたように見えたのは、気のせいだろうか。
良弥君は自販機にもたれて肩をすくめた。「意味は……歩きながらわかる。俺はまだわかんない。わかったやつから、次に教えてやってくれ」
「なんで自分で言っておいて、わかんないのよ」美咲が笑い、輪に薄い笑いが重なる。僕はその笑いに合わせて、紙コップの列を一つ分だけ狭め、風の通り道を塞いだ。
「……以上。師匠の口癖、だいたいそんなとこだ」
湯気がまとまり、夜の温度がひと目盛り上がったが、その師匠の言葉はまだ腑に落ちないままだ。
僕は隣のカップへそっと湯を注ぐ。花音さんが目だけで「ありがとう」と言った。その硬い表情からにじむわずかな笑顔が、僕は、好きだ。
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