第16話 奪われた旋律
2023年10月28日 午後7時36分
霧雨がネオンをほどき、アスファルトに色の帯を滲ませていた。トー横の輪は二十人を超え、湯気と吐息が重なって緩やかに脈打っている。
花音は輪の外、街灯が作る光の円の中に立ち尽くす。紫のコートの袖口を指で摘み、耳の奥で自分の拍を数えていた。ポケットの中で古いスマホが微かに震える。画面には、名前のない黒いアイコンと短い一文。
「話がしたい」
喉が細く結ばれ、指先が冷たく痺れる。彼女は誰にも声をかけず、持っていたコンビニ袋を輪の端にそっと置いた。×印のついた包みを一つ、端へ寄せる癖だけが、無意識に手を動かす。
街灯の光がヘッドホンのカップで一度だけ跳ね、彼女は裏通りへと歩き出した。ネオンの反射が布地で小さく弾け、すぐに闇へ沈む。
同じころ、甲州街道の歩道。假屋崎雄太は妹・未来の小さな手を握り直した。汗と霧で滑る指は頼りなく、彼は何度も掌を重ねる。家を出る前、父の不在を確かめ、テーブルに〈今日は母の家へ向かう。未来は無事〉と置き手紙を残してきた。
それでも鼓動は速いままだった。「こっちだ、未来。手を離すなよ」スリッパのゴム底が濡れた舗道を「ぱしん」と叩く。信号の残り秒数が点滅に変わり、人の流れと共に横断歩道を渡った。
巨大怪獣の頭部から白い光が落ちる半地下の広場が近づくと、雄太は未来を背中側へ回して庇い、周囲を一度だけ素早く見渡す。吐く息は白く、妹の肩が小さく震えた。
広場に着くと、麻衣が目を見開いて駆け寄り、畳んであった毛布をほどいて未来の肩に掛ける。美咲はしゃがみ込み、冷えた頬に掌を当てた。「大丈夫。ここは安全だから」
未来の喉が小さく鳴り、握られていた兄の手が少しだけ緩んだ。紙コップが一つ、二つと増え、湯気が薄く重なっていく。
そのとき、麻衣は輪の隅にある異常に気づいた。
さっきまで中身のあったコンビニ袋が空のまま置かれ、×印の包みの数は増えていない。ポットの湯量は減っていないのに、花音の定位置にあるカップが空席のままだ。
「おかしくない?」美咲が小声で問う。麻衣は頷き、目線で合図を返した。
麻衣がコンビニ袋を置いて駆け出しかけた。私は袖をつまんで引き留める。「待って。左右で挟む。麻衣は区役所通り、私は花道通り。五分で一度戻ろう。ケンジ、導線と私たちの監視を」ケンジが親指を立てる。麻衣は「わかった……」と短く息を吐き、私たちは広場を抜けて霧雨の裏通りへ散った。ネオンが水たまりに細く揺れ、遠くのサブウーファーが地面の下で低く唸る。胸の拍動が、半歩分だけ速くなった。
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