散財悪女シンディアの真実

福嶋莉佳

1話

「お父様…!」


十歳のシンディアは泣きながら父の手を握った。


シンディアの父アーデン伯爵は枕に沈み、

衰えた胸がかすかに上下していた。


「…シンディア…すまぬ…」


その横で、継母がしとやかに微笑んだ。


「どうぞご安心を。

この子のことは、わたくしが母として必ず守ります」


父はその言葉に力なく頷き、

静かに息を引き取った。


部屋は、唐突なほどの沈黙に包まれる。


「嫌…! お父様!!」


シンディアが泣きながら亡骸にすがりつく。


その小さな背を見下ろしながら、

継母はふと視線を落とした。


――口元が、かすかに吊り上がった。





磨かれたシャンデリアの下、

絹のドレスを纏った貴婦人や若い令嬢たちが

紅茶を手に囁き合う。


壁際には退屈そうな若い貴公子たちも

耳をそばだてていた。


「ご存じ? アーデン家の娘のこと」


「ええ、伯爵が亡くなってから家を食い潰したそうですわ」


「散財悪女でしょう? 宝飾も馬車も買い漁って」


「まあ、下品な娘だこと」


「でも美しいらしいわ。

漆黒の髪に碧い瞳、男を狂わせるとか」


それを聞いた貴公子の一人がくすりと笑う。


「へえ、俺も散財させてもらいたいな。

舞踏会で確かめよう」


笑いが広がり、澄んだティーカップの音が響いた。





大広間の片隅で、

十八歳のシンディアは煤で黒ずんだ

エプロンドレス姿のまま膝をつき、

床を磨いていた。


髪も煤で汚れ黒く染まり、

指先は洗いすぎでひび割れている。


「シンディ! 水が切れてるわよ!」


十九歳の義理姉が母譲りの傲慢な目つきで命じた。


ドレスは流行に合わせた絹だが、

着こなしはどこか滑稽で、

本人だけが気取っている。


「はい…」


シンディアは小さく答え、

桶を抱えて黙々と歩く。


継母は上等な椅子に優雅に腰掛け、

扇で頬をあおぎながら鼻で笑った。


「まったく、この子は役立たずね。

せめて掃除くらいはきちんとやってもらわないと」


「ごめんなさい…」


シンディアは小さく答え、俯いたまま力を込める。


義理姉がわざとらしく口元を覆い、肩を震わせた。


「ふふっ…煤だらけのエプロン、

ほんとによく似合ってるわね」


そして、ふと思い出したように声を弾ませた。


「そういえば、このあいだサロンで聞いたの。

王宮で舞踏会があるんですって!

どうやら、王太子殿下の婚約者探しを兼ねてるらしいわ」


継母は目を輝かせ、すぐに計算を始める。


「まあ! それは大事ね。

すぐに新しいドレスを仕立てないと」


シンディアは手を止め、ぼそっと呟く。


「…舞踏会、があるのね」


義理姉は鼻で笑った。


「でもシンディアは無理よねー。

社交界デビューもしてないし、

そんなみすぼらしい格好じゃ

誰にも相手にされないわ」


床に落ちる灰よりも、

胸の奥に沈む言葉の方が重かった。





掃除を終えたシンディアは、

煤に汚れた裾を握りしめながら廊下の奥へ向かった。


辿り着いたのは、かつて物置に使われていた狭い部屋。

今は彼女の寝所だった。


「部屋の節約になるでしょう?」


継母は涼しい顔でそう言って、彼女をここに押し込んだ。


広い客間は義理姉に与えられ、

シンディアにはこの吹き溜まりしか残されなかった。


壁紙は剥がれ、

窓枠の隙間から夜風が吹き込み、

薄いカーテンを揺らしている。


家具といえば古びた机と小さなベッドだけ。


「あんたばかりずるいのよ!

私はお父様から何もいただいてないの!」


義理姉に父や母からの贈り物やドレスは

すべて奪われてしまった。


「無駄に侍女を雇う金なんてないのよ。

動けるのだから自分でやりなさい」


継母の声が頭にこびりついている。


衣服の修繕も食器の片付けも、

すべて自分の手でやらねばならなかった。


机の上には、父が遺した古い帳簿が一冊。


「女でも学べば力になる。お前はきっとできる」


シンディアは埃を払い、

ろうそくの明かりでページをめくる。


だが、そこには数年前で途絶えた記録しか残っていない。


父が亡くなった日から、

領地の帳簿は継母の手に移ったのだ。


「お母様、領地は今どうなっているのですか?」


幼い日の声が甦る。


返ってきたのは冷たい叱責と、扇で頬を打たれた痛み。


「生意気を言うな。

この家のことに口を出すんじゃないよ」


シンディアは震える手で帳簿を閉じ、膝に顔を伏せた。


「…お父様…ごめんなさい…」


私、何もできていない――。


灯火が揺れ、涙に滲んだ文字をぼやかしていく。


しばらくして、袖で涙を拭う。


彼女は机の古びた本を開き、

煤に汚れた指でページをなぞり、静かに読み進めた。



王都の宝飾店。


義理姉は鏡の前で真珠の首飾りを胸に当て、

うっとりと笑っていた。


「お母様、これ素敵でしょう?

舞踏会で殿下と踊るには、これくらいでないと!」


継母は店員を呼びつけ、

次々とドレスや扇を手に取らせる。


「ええ、この色も悪くないわね。

…それから、この刺繍も追加してちょうだい」


商人が会釈し、領収書を差し出す。


継母は扇で軽く押さえ、

何食わぬ顔で署名した。



――屋敷に戻ると、

包みの山が机いっぱいに広げられた。


義理姉は新しいドレスを抱きしめて跳ねる。


「ふふっ、これで絶対に殿下の目に留まるわ!」


継母は紙束をめくり、眉をひそめる。


「…支払いがかさみすぎているわね」


ふと、机の端に置かれた小さな宝石箱に目が止まる。


それはかつて、夫がシンディアに与えたもの。


『シンディアは可愛いだけでなく、賢いなぁ』


――あの時の、頬を緩めて褒めちぎる声が耳に蘇る。


たったそれだけで胸の奥がざわつき、

扇の骨がきしむほど握りしめていた。


「――そうね。

そろそろあの子を嫁がせてしまえばいいかもしれない」


義理姉が目を輝かせる。


「シンディアを?

ふふっ、あの子の世話代もかからなくなるし、いい考えね!」


二人の視線が同じ一点に落ち――

くすっと笑いが洩れた。


継母はすぐに扇を閉じて領収書を伏せ、

にこやかに言う。


「じゃあ、私達の為に、いい嫁ぎ先を見つけましょう」





ある日、広間に呼び出されたシンディアは、

煤に汚れた裾を気にしながら椅子に座った。


継母は優雅に腰掛け、

扇を指先で軽く叩きながら言った。


「シンディア。あなたももう十八。

いつまでも屋敷に置いておくわけにはいかないの。

そろそろ嫁ぎ先を決める頃合いだわ」


「…嫁ぎ先?」


シンディアは目を見開いた。


「そうよ。もう決まったの。

あなたは来月、伯爵家へ嫁ぐの」


「そんな…!

私はアーデン家を捨てるつもりなんてありません!」


シンディアの必死の声は震えていた。


「おだまり!

持参金も受け取っているの、

今更断れるわけないでしょ?」


継母は扇を鳴らし、冷たい目で睨みつける。


「それともアーデン家を潰したいのかしら?」


「そんな…」


義理姉が近づき、にやりと笑った。


「よかったじゃない。

あんたみたいな貧相な女、

もらってくれる人がいて。

お母様に感謝しなさい」


その耳元に、義理姉がすっと顔を寄せる。


「いき遅れの伯爵なんですって。お似合いね」


シンディアは息を呑み、頬が熱くなる。


継母と義理姉の笑みが、

広間の冷たい空気をさらに重くした。





屋敷の一室で、

継母は裁縫係に指示を飛ばした。


「この子の支度は、あの子のお古を直せばいいわ。

新しく仕立てる必要なんてないもの」


「装飾は最低限。

無駄に金をかける必要はないわ」


義理姉は扇で口元を隠し、

嬉々としてドレスを差し出した。


「この青のドレスにしましょう。

私にはもう小さくて着られないし、ちょうどいいわ」


針子たちが裾を広げたり袖を直したりしていると、

義理姉がくすくす笑いながら口を挟む。


「ねえお母様、裾は思い切って短めでいいんじゃない?

田舎伯爵、どうせ流行なんて知らないでしょうし」


継母も微笑みながら頷く。


「ふふ、そうね。それで十分」


シンディアは静かに見つめ、

胸の奥でつぶやく。


――これが、私の嫁入り衣装なのね。


シンディアは黙ってうつむき、

針を動かす使用人の手元を見ていた。


自分の結婚支度なのに、

意見を求められることすらない。


胸の奥で小さく、声がこだまする。


――私は…このまま家から追い出されるの?

(お父様が守ったアーデン家を、

私は何もできずに捨ててしまうの?)


唇を噛みしめ、指先を強く握ったが、

答えは返ってこない。


部屋を満たすのは、

継母と義理姉の冷たい笑い声だけだった。





伯爵邸の執務室。


窓から差し込む光の中で、

背筋を伸ばした男が机に向かっていた。


ペン先が走るたび、

広い部屋に乾いた音が響く。


執事が机に一通の返書を置く。


「旦那様。アーデン家からの縁談、

正式にお受けになるので?」


男は手を止めずに答えた。


「受ける。」


執事はわざとらしく肩をすくめる。


「とはいえ王都では、

あまりよろしくない噂も囁かれておりますよ。

“散財悪女”だとか」


そこでようやく男――レオンハルトは顔を上げ、

ペンを置いた。


「噂など確かめればいいだけの話だ」


静かな声が返る。


あの家の娘を迎える――

それだけが彼にとって重要だった。





朝靄の立ちこめる中庭。


使用人たちが黙々と荷を積み込み、

黒い馬車が待っていた。


シンディアは扉の前に立ち尽くし、

震える声で言った。


「…どうか、この家を…

アーデンの領地を、大切にしてくださいませ」


継母は冷ややかに扇を動かし、鼻で笑う。


「口だけは一人前ね。

心配せずとも、私がすべて取り仕切るわ」


義理姉は小馬鹿にしたように囁く。


「ふふ、安心して行きなさいな。

田舎伯爵にはぴったりの花嫁だもの」


そのやり取りを、荷を抱えた使用人たちが

伏し目がちに見ていた。


誰も口には出さなかったが、

その瞳には明らかな憐れみが浮かんでいた。


シンディアは唇を噛みしめ、頭を垂れる。


「今まで…お世話になりました」


かろうじて感謝の言葉を言い残し、

馬車へと乗り込む。


扉が閉ざされる瞬間、

屋敷の屋根が涙にかすんだ。


――お父様。どうか、この地を見守って。


蹄の音が響き、

馬車はゆっくりと動き出した。





馬車は長い街道を走り、

やがて広がる景色が変わっていった。


村々は整い、人々の声は明るく、

市場には賑わいがあった。


シンディアは思わず窓に顔を寄せる。


「…こんなに豊かな領地があるなんて…」


(どんな方なのかしら…)


馬車は石畳を進み、

やがて高い門をくぐった。


広大な庭園の奥に、

白い石造りの屋敷がそびえている。


窓は磨き上げられ、噴水がきらめき、

整列した使用人たちが一斉に頭を下げた。


シンディアは思わず息を呑む。


「…なんて立派な…」


裾を見下ろせば、

身にまとっているのは義理姉のお古を

無理やり仕立て直した青いドレス。


裾は不自然に広げられ、装飾も薄い。


荒れた指先とやつれた頬が、

華やかな屋敷の景色にひどくそぐわない気がした。


胸の奥がじくじくと痛む。


(私なんかが、こんな場所に立っていていいの?

追い返されないかしら…)





その時、玄関から現れたのは、

背の高い男だった。


軍人のように鍛えられた広い肩と胸板、

陽を受けて光る濃い栗色の髪。


彫りの深い顔立ちは

冷ややかに整いすぎていて、

近づきがたい威圧を纏っている。


けれど青の瞳がシンディアをとらえた瞬間、

ほんのわずかに揺れ、静かな波紋を落とした。


(この方が? 

お姉様が行き遅れと言ってたけど…

そんな風に見えない)


レオンハルトは一瞬だけ眉を寄せたが、

すぐに表情を消し、低く告げた。


「…アーデン伯爵家のご令嬢だな」


シンディアは緊張で指先をぎゅっと握りしめ、

それでも背筋を正した。


「…はい。シンディア・アーデンでございます」


声は小さく震えていたが、

礼だけは守ろうと必死だった。


男は一瞬だけ彼女を見つめ、

それからわずかに顎を引いた。


「――レオンハルト・ヴァイスフェルトだ」


短く名乗り、低く声を落とす。


「長旅で疲れただろう。

…まずは部屋へ案内しよう」


「あ、ありがとうございます」


長い足取りで歩き出す背を、

シンディアは慌てて追った。


大理石の廊下は磨き上げられ、

窓から差し込む陽光に白く輝いている。


壁には重厚な絵画が掛けられ、

金糸のカーテンが風に揺れていた。


(お金持ちの伯爵様と聞いていたけど…

家の中も豪華ね…)


靴音だけが二人を包み、

沈黙は緊張を増していく。


やがてレオンハルトが足を止め、

扉の前に立った。


「ここがお前の部屋だ」


扉が開かれると、

天蓋つきの寝台と厚い絨毯が目に飛び込んでくる。


窓辺には小さな応接机、

壁際には本棚まで備わっていた。


空気は香木のように穏やかで、

そこに立つだけで現実感が薄れていく。


シンディアは思わず息を呑み、

震える声を洩らした。


「…こんな立派なお部屋を、わたくしに…?」


レオンハルトは振り返らず、

低く淡々と答える。


「当然だ。お前は、ヴァイスフェルト家の一員だからな」


その言葉に胸が熱くなり、

シンディアは深く頭を下げた。


「ありがとうございます、旦那様」



レオンハルトは一瞬、動きを止めた。

わずかに眉を動かし、呼吸を整えるように間を置く。


「……ああ」


低く短い返事が落ちた。


扉が閉じ、静寂が戻ったあと。


やがて控えめなノックの音がして、

落ち着いた声が響いた。


「失礼いたします。

旦那様の命により、奥様のお世話を仰せつかりました――マリアンと申します」


彼女は深々と一礼し、

持参品の包みを一つひとつ机に広げていく。


使い古した化粧品。

擦り切れた本。

わずかな小物ばかり。


豪奢な宝飾は一つもなかった。


「…これがすべてでございますか」


淡々とした問いかけに、

シンディアは気まずそうに小さく頷く。


「はい…」


マリアンの瞳が一瞬だけ揺れたが、

すぐに無表情に戻った。


「承りました。では整理いたします」


針のように正確な手つきで衣装を畳むその姿に、

シンディアは居心地の悪さと、不思議な安心の両方を覚えた。


マリアンは手を止め、淡々と告げる。


「間もなく夕餉の時刻でございます。――奥様もご準備を」


その声に促され、シンディアははっと身を正した。





長い食卓には、

煌びやかな料理が次々と並べられていた。


黄金色のスープ。

香ばしく焼かれた肉。

甘やかな果実の盛り合わせ。


シンディアは息を呑み、

フォークを震える指で握った。


「…いただきます」


小さく呟いて口をつける。


味は美味しい。

けれど、喉を通るたびに胸が詰まるようだった。


(どうしよう…こんなにたくさん、食べ慣れていない…)


皿の上は減らず、食事は進まない。


ふと、低い声が落ちた。


「…食欲がないのか」


シンディアは慌てて顔を上げる。


「い、いえ…とても美味しいのです。ただ…」


言葉が喉で止まり、俯いた。


煤で荒れた指先が、フォークを強く握りしめる。


「…いつも、こんなに食べていないので…。だから…入らなくて…」


短い沈黙。


使用人たちの視線が一瞬だけ揺れ、

空気が凍ったように感じられた。


だが、レオンハルトは表情を変えずに答える。


「無理することはない」


その一言に、シンディアの胸が熱くなった。


責められると思っていたのに、ただ受け入れてくれる――


それがどれほど救いになるのか、

自分でも驚くほどだった。


「…ありがとうございます」


(こんな優しい方なのに…

どうしてご結婚されていなかったのかしら)


疑問に思いつつも、シンディアは深く頭を下げた。


食事を終えて部屋へ戻ると、

マリアンが既に待っていた。


「お召し物をお替えいたします。髪も整えましょう」


促されるまま椅子に腰を下ろす。

マリアンが髪に手をかけた瞬間、わずかに眉をひそめた。

シンディアは気まずそうに俯いた。


――煤にまみれた髪を自分で拭き、

ほつれた裾も自分で縫った。誰の手も借りずに。


「…あの、自分でできます」


小さな抵抗を口にしたが、

マリアンはわずかに首を傾けるだけだった。


「奥様のお務めではございません。どうぞご安心を」


衣が手際よく替えられ、髪が整えられる。

シンディアはためらいながら声を落とした。


「…あの、私はこれから何をすればよろしいのでしょうか?」


マリアンは動きを止めず、淡々と答える。


「奥様のお務めは、行事に顔を出すこと。

それ以外は旦那様のご意向に従えば十分です」


その響きが胸に残る。

気づけば支度は終わり、導かれるまま寝台へと身を横たえていた。


絹の柔らかさが、かえって落ち着かない。


(そういうものなの…?

 わたしは何もしなくていいのかしら…)


空虚さを抱えたまま、旅の疲れに引きずられるように、

静かな眠りへ落ちていった。





夜の執務室には、ランプの灯だけが静かに揺れていた。


机の上に広がる書類の影を見つめながら、

レオンハルトは黙々とペンを走らせている。


眉間には深い皺が刻まれ、

昼間に耳にした報告が頭を離れなかった。


――持参品はわずか。衣は古び、髪は荒れている。

指先には縫い仕事の痕があり、痩せすぎている。

贅沢どころか、満足に世話すら受けていなかったのではないか。


「いやぁ旦那様」


扉脇に控えていた執事が、苦笑まじりに声をかける。


「てっきり“散財悪女”がお越しになるのかと思いましたが…

見事に肩透かしでございましたな」


レオンハルトはペン先を止め、視線を上げた。


「…そうだな」


「むしろ気の毒なくらい痩せておられる。

贅沢どころか、ろくに食べさせてもらっていなかったのではありませんかね」


執事は腕を組み、眉を寄せる。


レオンハルトは椅子にもたれ、低い声で応じた。


「噂は所詮、噂にすぎん。大事なのは実際にどうかだ」


執事が肩をすくめ、皮肉げに笑う。


「ならば噂の方を探れば早いでしょう。

――出所さえ押さえれば、何が虚で何が実かも見えてまいります」


レオンハルトはペンを置き、真っ直ぐに執事を見据えた。


「…裏を取れ。

王都で広まっている“散財悪女”の噂がどこから出たのか、探れる範囲でいい」


執事はにやりと笑みを浮かべ、軽口を添える。


「承知しました。とはいえ旦那様、

もう少し社交の場にお顔を出されていれば、

こんな妙な噂に振り回されずに済んだでしょうに」


「…耳が痛いな」


レオンハルトは苦く笑い、再び書類へ視線を落とした。


机に落ちるランプの光が揺れ、

静けさの中で紙をめくる音だけが響いていた。



マリアンの指が櫛をすべらせる。

朝の光に映る自分の姿が、まだどこか落ち着かない。


鏡をのぞき込みながら、マリアンが静かに言った。


「奥様。この衣服では、人前にお出になるのは少々厳しゅうございます。

新しく仕立てられた方がよろしいでしょう」


シンディアは思わず首を振り、唇を結ぶ。


「……ですが、まだ着られます」


胸の奥に、すぐ言葉が浮かぶ。

――来て早々に贅沢なんて、とんでもない。


マリアンはわずかに目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。

ただ手際よく髪を結い上げ、姿見を整えるだけだった。





その後、屋敷の見学のためマリアンに導かれて長い廊下を歩く。

すれ違う使用人たちの目が、そっと彼女に集まる。探るような視線だった。


(やっぱり…このドレス、駄目なのかしら)


胸の奥に不安を抱えたまま歩いていたそのとき、

窓辺のカーテンに小さなほつれを見つける。


思わず裾をつまみ、指で糸を確かめた。


「…針と糸をいただけますか? 直しておきます」


マリアンが驚いたように瞬きをする。


「奥様が、ですか?」


「…アーデン家では侍女が少なくて。

だから、私がやるのが当たり前で…」


短い沈黙ののち、マリアンは淡々と頷いた。

表情は変わらぬまま、その瞳の奥がわずかに揺れた。


背後から落ち着いた足音が響く。

振り返ると、レオンハルトが静かに立っていた。


「…旦那様」


シンディアは慌てて裾を整え、小さく頭を下げる。


レオンハルトは彼女を一瞥し、扉を開けて先に進んだ。


「少し話そう」





重厚な扉が閉ざされ、室内には紙の擦れる音だけが残る。

シンディアは椅子の端に座り、緊張で指先を重ねていた。


やがてレオンハルトが視線を上げる。


「……近日中に茶会を開く。君にも同席してもらう」


「……わ、わたくしが?」


驚きに目を見開き、頬が熱を帯びる。


「そのような場は……初めてで」


「まだ出たことがないのか」


低い問いに、シンディアは恥ずかしそうに俯き、小さく頷いた。


短い沈黙。

レオンハルトは軽く息を吐き、すぐに決断を下す。


「ならばマリアンに指導を受けろ。それと、ドレスも新調する」


「え……で、でも……」


慌てて首を振るシンディアを、青の瞳が静かに射抜いた。


「伯爵家の者として人前に立つのだ。

……相応しい装いを整えるのは、私の務めでもある」


その一言に胸が締めつけられ、シンディアは深く頭を垂れた。


「……はい。ありがとうございます」


(……やっぱり、あのドレスではいけないのね)


レオンハルトはそれ以上言葉を重ねず、再び書類へ視線を落とした。

紙をめくる音だけが、静かな部屋に淡く響いていた。





夜、ランプの灯りだけが揺れる執務室。

レオンハルトの前に、マリアンと執事が並んでいた。


「本日の奥様についてご報告いたします」


マリアンは無表情のまま告げる。


「職人には丁寧に礼を述べられ、布地も控えめなものをお選びでした。

作法に大きな乱れはありませんが、所作はやはり不慣れでございます」


レオンハルトの眉がわずかに動く。


続いて執事が、数枚の書き付けを机に置いた。


「“散財悪女”の噂を探りましたが、実際にご令嬢を見た者はおりません。

宝飾や馬車を買い漁ったなどと吹聴されておりますが、出所は曖昧で“幽霊令嬢”と呼ばれる始末です」


青の瞳が鋭く光る。


「……根も葉もない可能性が高いということか」


「ええ。悪意の戯言か、退屈しのぎの与太話でしょうな」


レオンハルトは静かにペンを置き、低く言い放つ。


「アーデン伯爵には恩がある。

その娘を迎えながら、“散財悪女”と囁かれていては家も領地も傷つく。

――裏を取れ。虚か実か、必ず確かめろ」


執事はにやりと笑い、深く一礼した。


「承知いたしました、旦那様。…まったく、旦那様も疑り深いことで」


炎が揺れ、重い沈黙だけが残った。



数日が過ぎ、シンディアはようやく食事も喉を通るようになっていた。

その傍らでは、マリアンが淡々と指導を続けている。


「奥様、まずはご挨拶から。上位の方へは深く、視線は伏せすぎず」


「こ、こうでしょうか?」


「ええ。ただ肩の力を少し抜いて」


次は茶器を手に取る。


「カップは親指と人差し指で軽く支えます。中指は添える程度に」


「…あっ、落としそう」


「大丈夫。慣れれば自然と安定いたします」


会話の練習に入ると、シンディアは困ったように眉を寄せた。


「お天気のお話ばかりでは…すぐ尽きてしまいます」


「そのときは、お相手の衣や装飾に触れるのです。

誉め言葉は最も安全でございます」


「そ、そうなのですね…」


ぎこちなさは残っていたが、

屋敷の使用人に「おはようございます」と声をかければ、

彼らも柔らかく微笑み返してくれるようになった。


シンディアは少しずつ、この場所に居場所を見つけていった。





その日、仕立て部屋に並べられた布地の中から、

一着の深紅のドレスが彼女の前に差し出された。


「奥様、茶会にはこちらをお召しくださいませ」


マリアンの声に導かれ、鏡に映る自分を見つめる。

義理姉のお古ではない――初めて自分のために仕立てられた衣装だった。


「…素敵…」


針子が驚いたように目を瞬かせ、やがて柔らかく微笑む。


「お気に召しましたら幸いです、奥様」


シンディアは慌てて背筋を正し、小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


マリアンはその様子を静かに見守りながら、耳元で囁く。


「胸を張ってくださいませ。今日は奥様が、この屋敷の顔となるのです」


シンディアは頬を赤らめ、鏡越しにぎこちなく頷いた。





――茶会当日。


廊下を進むシンディアの前に、黒衣のレオンハルトが現れる。

深紅のドレスを纏った姿を一瞥し、彼はわずかに顎を引いた。


「……怯えるな。ただ座っていればいい」


低い声に胸の奥が熱を宿し、シンディアは深く頭を垂れる。


「……はい」


扉が開いた瞬間、夫人と令嬢たちの視線が一斉に注がれた。


「まあ、こちらがアーデンのご令嬢?」


「思っていたより……」


言葉は途切れ、探るような眼差しだけが注がれる。


(旦那様に恥をかかさないように……)


必死に背筋を伸ばし歩み出ると、

レオンハルトが椅子を引いた。


「座れ」


短い響きに、わずかに肩の力が抜ける。


震える指でカップを持ち上げ、紅茶を口にした。

香りが広がり、喉を通る。


「……とても香り高く、心がほどけるようです」


夫人の一人が目を瞬かせ、やがて柔らかく頷いた。


「まあ、丁寧なお答えですこと」


空気がわずかに和らいだ、そのとき。

別の夫人が笑みを浮かべて声をかけた。


「本当にご結婚なさったのね。

これまで“お忙しい”と紹介の場も避けておられて」


隣の旦那も軽く頷く。


「領地を見事に立て直されたと伺っております。

ようやくお顔を拝見できましたわ」


シンディアは目を瞬かせ、思わずカップを強く握った。


(旦那様が…この素晴らしい領地を?)


胸の奥で、小さな尊敬が灯る。


返す言葉を探す間もなく、別の囁きが耳に届いた。


「……あの方が、噂の“散財悪女”?」


「でも想像と違うわ。もっと派手で贅沢三昧かと……」


シンディアの動きが止まった。


(“散財悪女”? どういう意味……)


---


客が引き上げ、静けさが戻る。


ざわめきを抱えたまま歩くシンディアに、レオンハルトが並んだ。


「……よくやり遂げたな」


振り返った青の瞳は、厳しさより温かさを帯びていた。

その一言に張り詰めていた胸が緩む。


「……ありがとうございます」


けれど耳には、先ほどの囁きが残っている。

――“散財悪女”。私のことなの?


言葉が喉でつかえ、結局、微笑みだけを浮かべた。





部屋に戻り扉を閉めると、暗がりに身を預けて小さく呟く。


「散財悪女……私が? まさかね……」


(だってお父様が亡くなってから外に出たことなんてないもの……)


そう言い聞かせても、眠りはなかなか訪れなかった。





ランプの灯が揺れ、机の上に影を落とす。

レオンハルトは書類に目を通しながら、茶会の光景を思い返していた。


扉が叩かれ、執事が入室する。


「旦那様、茶会はいかがでございましたか」


「……ぎこちなさはあったが、虚飾はない。不慣れなりに誠実に応じていた」


執事は頷き、懐から数枚の紙を差し出した。


「“散財悪女”の噂について、調べてまいりました」


「……そうか」


紙面に視線を落とし、レオンハルトは青の瞳を細めた。





――翌朝。


「……入れ」


低い声に促され、シンディアはおずおずと足を踏み入れる。

裾を揃えて礼をし、恐る恐る視線を上げると、レオンハルトが椅子を示した。


「……“散財悪女”という噂を耳にしたか」


胸の奥で茶会の囁きが甦る。


「……はい。先日……偶然、耳にしました」


レオンハルトは机上の束から一枚を抜き、淡々と差し出した。

シンディアが目を落とした瞬間、息が止まる。


「……そ、そんな……」


掠れた声がこぼれ、指先が震えた。


レオンハルトの青い瞳が静かに射抜く。


「虚しい噂に振り回されるな。……お前の名を汚させはしない」


その言葉に胸が揺れ、涙はこぼさずに小さく頷いた。


「……ありがとうございます」


しかし安堵の陰で、己の無力さだけが重く残っていた。





翌日の午後。

執務室に控えていたマリアンが、銀の盆を捧げて入室する。


盆の上には、深紅の封蝋で封じられた一通の手紙。


「王宮より、舞踏会の招待状が届きました」


レオンハルトは眉ひとつ動かさずに受け取り、封を割った。

紙を広げると、流麗な文字が躍る。


――王太子殿下主催の舞踏会。婚約者候補としての披露を兼ねた夜会。


机越しにシンディアへ視線を向ける。


「……来月、王宮で舞踏会が開かれる。お前も出席することになる」


その言葉は遠い世界の出来事のようで、心臓が高鳴った。


――茶会でさえあれほど緊張したのに。

舞踏会など、想像もつかない。


「……わ、わたくしが……王宮の、舞踏会に……」


震える声を必死に抑え、裾を握りしめる。


(それに……“散財悪女”と噂されている。旦那様に迷惑をかけてしまうわ)


目を伏せ、俯いたそのとき。

レオンハルトの青い瞳が静かに射抜いた。


「怯えるな。お前は、ただ胸を張って立てばいい」


シンディアははっと顔を上げる。

彼は言葉を継いだ。


「この家の者として、人前に立つ覚悟を持て」


その声は鋼のように揺るぎなく、けれど不思議と温かさを帯びていた。


シンディアは胸の奥で鼓動を聞きながら、ゆっくりと頷く。


「……はい」


指先はまだ震えていたが、背筋は真っ直ぐに伸びていた。


 ◆◆◆


昼間の執務室は静かだった。

紙を繰る手を止め、レオンハルトはふと視線を外にやる。


中庭の一角。

帳簿を抱えたシンディアが机に向かい、真剣に数字を追っていた。

確かめるように、何度も同じ行をなぞる指先。

列を整え、誤りを写し直す動きは迷いがない。

――さすが、アーデン伯爵の娘だ。


やがて陽が傾き、彼女は帳簿を閉じ、マリアンに伴われて広間へ向かう。

ほどなくして廊下に楽の音が洩れた。


覗けば、シンディアが一人で必死に舞を繰り返していた。

裾を踏んでは止まり、頬を紅潮させ、また立ち上がる。


「……相手がいなければ、舞は成り立たん」


広間に歩み入り、掌を差し出す。

戸惑いながらも、彼女は震える手を重ねた。


「……軽く握れ。力を抜け」


「は、はい……」


一歩、二歩。

導くと、恐る恐るも足を運ぶ。


「足を見すぎるな。前を見ろ」


「で、でも……転んでしまいそうで」


「転びそうになったら、支える」


低い声に、シンディアは唇を噛みしめ、再び足を踏み出した。


失敗しても立ち止まらず、何度も挑もうとする。


「……こ、こうですか?」


「悪くない」


その一言に、シンディアの瞳がぱっと揺れた。

さらに真剣さを増す。


汗をにじませながらも食らいつこうとする眼差しが、真っ直ぐにこちらを映していた。


――煤に荒れた指で帳簿を追い、今は必死に舞を学んでいる。

虚像を打ち砕こうと、自ら立ち向かおうとする姿。


胸の奥に、理屈ではない感情が膨らんでいく。

ただ――守りたいと思った。


---


仕立て部屋の扉を開くと、布地の匂いが押し寄せた。


鏡の前には、青のドレスを纏ったシンディア。

肩をこわばらせ、所在なげに目を伏せている。


一瞬、青の瞳を細めて見つめた。

飾り立てずとも、その立ち姿だけで映えていた。


「……似合っている」


短い言葉に、頬が朱に染まる。

はにかむような微笑み――控えめで、けれど柔らかに咲いた笑みだった。


「ありがとうございます」


その笑みが胸を突く。

これまで「守るべき者」として見ていた娘が、鮮やかに女として映る。


思わず視線を逸らし、声を抑えた。


「……準備を整えておけ」


背を向け扉を閉ざすまで、あの微笑が焼きついて離れなかった。



鏡に映る自分の姿に、私は笑みを深めた。

流行色の新しいドレスに宝石を散りばめれば、誰より映える。


「お母様、やっぱり私が一番ですわよね?」

「ええ。他の娘なんて比べるまでもないでしょう」


顔を見合わせ、くすりと笑う。

漆黒の髪が肩に流れ落ち、澄んだ青の瞳が宝石の光を映す。


「シンディアを早々に片づけて正解だったわ。持参金で十分に贅沢できたし」

「ほんとうに。あの子じゃ殿下の隣は務まらないもの」


---


舞踏会の大広間に足を踏み入れ、確信はさらに強まった。

「周りの娘たちはどれも地味で冴えないわね」

(ふふ、やっぱり私が一番。殿下の目を引くのは私に決まってる)


「……あんた、見られてるわよ」

母の囁きに胸が躍る。

「え!? やっぱり、私が美しいから!」


――その時、侍従の張り上げた声が大広間に響いた。

「ヴァイスフェルト伯爵、並びに――アーデン家ご令嬢シンディア!」


その名に思わず目を見開く。

(シンディア!? まさか、あの娘がここに?)


重厚な扉が開く。

現れたのは背の高い男と、その腕に導かれた妹――シンディア。


けれど煤にまみれ下女同然だった姿はどこにもなく、

青のドレスを纏い、シャンデリアの光を散らす髪は金糸に輝いていた。

澄んだ碧眼がまっすぐに広間を見渡す。


「……ブロンド?」

「でも噂では黒髪のはず……」

囁きが一斉に広がる。


(嘘……どうして……あれがシンディアだなんて!)


だが誇りがすぐに不安をかき消した。

どうせ殿下が選ぶのは私――そう信じていた。


……なのに。

王太子殿下の視線は私の横を素通りし、シンディアへと伸びた。


迷いなど一片もなく、彼は彼女に手を差し出した。

私の存在など最初から眼中にないかのように。


(な、なに……? どうして……私じゃないの!?)


音楽が弾け、二人が舞い始める。

人々の視線と称賛の声が渦を巻いた。


「まあ、なんてお似合い」

「まるで絵のようだわ」


(違う! 私の方がふさわしいに決まっているのに!)


必死に扇で顔を隠す。

嫉妬と羞恥で胸が焼ける。


「お母様……なんでシンディアが…殿下の隣に」


母も顔を引きつらせたが、すぐに笑い声を響かせた。

「まあまあ、見違えましたわねえ、シンディア!」


私も勝ち誇ったように続ける。

「でもねえ、お母様。立派なドレスに身を包んでも、中身は変わらないのでは?」


わざとらしく周囲へ囁く。

「だってあの子、昔から散財ばかりで。伯爵家に嫁いでからも浪費しているんでしょう?」


「まあ……」「やっぱり」

令嬢たちの扇が一斉に口元へ上がり、ざわめきが広がる。


無数の視線がシンディアに突き刺さった。

彼女は一歩前へ出て、澄んだ声を放った。

「……わたくしは散財などしておりません」


毅然とした眼差しに、空気が揺れる。

だが――母の甲高い笑い声が遮った。

「ほらご覧なさい! 本人はそう言うに決まっているでしょう!」


その時。


「……くだらぬ戯言を」


レオンハルトの冷たい声が広間に響いた。

青の瞳に射抜かれ、私の背筋が震える。


「証拠もなく己の娘を貶める――無礼を働いているのは誰だ?」


母は青ざめ、声を搾り出す。

「こ、この娘は……浪費ばかりで……!」


冷笑を浮かべ、伯爵は執事へ合図した。

帳簿が掲げられる。


「記録にはシンディアの名。しかし署名は――継母とその娘のものだ」


全身の血が引いた。


「店主も証言している。来ていたのは――お前たちだ」


ざわめき。好奇の視線。

「じゃあ噂は偽り……?」

「でも散財していたのは黒髪の娘を見たって……」

「黒髪青目といえば……ここにいる彼女じゃない?」  


その言葉が耳を刺した。

喉が凍る。


「ち、違う! 私は……!」

必死の叫びは虚空に消え、母の唇も震えるばかりだった。


「帳簿を偽り、噂を吹聴した。虚像を作ったのは――お前たちだ」


冷たく放たれた声に、足がすくむ。

沈黙と嘲笑が一斉に降り注ぐ。


「わ、私は……王太子殿下の妃になるのよ!」


涙で化粧を崩し叫んだ。

だが誰ひとり手を差し伸べない。


護衛に腕をつかまれ、扉へと引きずられていく。


悔しさに滲む視界の隙間で見た。

王太子殿下がシンディアの肩に手を添える姿を。


「……っ」

胸の奥で何かが爆ぜる。


(なぜ……! どうしてあの娘ばかり……!)


「いやああああっ! 私の席よ! 殿下の隣は私のものなのに!!」


悲鳴は虚しく反響し、誰ひとり目を合わせようとしない。

冷笑と侮蔑が降り注ぐ中、私はもがきながら引きずられていった。


最後に映ったのは――

王太子の隣に立つシンディアと、その前に庇うレオンハルトだった。

◆◆


ざわめく広間の只中。

王太子が歩み寄り、シンディアの肩に手を添えた。


人々の視線は一斉にそこへ集まり、拍手と囁きが波のように広がっていく。

彼女は戸惑いながらも立ち続け、その姿はもう「庇護の下の娘」ではなかった。


――光を浴び、人々の目に映るその姿は、まるで「未来の妃」とでも呼ばれるように映っていた。


胸の奥に鈍い痛みが走る。

だが、表情に出すことは許されない。


(俺はただ、アーデン伯爵への恩を返すために彼女を迎えた……)


青の瞳を伏せ、深く息を吐く。

観衆の熱狂を背に、レオンハルトは静かに踵を返した。


王太子の隣に立つシンディアの姿が、まぶたに焼きついて離れない。


(……俺の役目は、終わったはずだ)


冷たい夜気に包まれながら、外門前の石段を降りる。

用意された馬車の扉が静かに開かれた、その時――


「……旦那様!」


振り返る。

青の裾を翻しながら、シンディアが必死に駆け寄ってきた。


肩で息をし、紅潮した頬のまま、彼の前に立つ。


「……どうして、追ってくる」


低く問う声に、彼女は震えながらもはっきり告げた。


「……わたくしは、あなたの妻です」


夜風が二人の間をすり抜ける。

胸の奥で、押し殺していた熱が疼いた。


――気づいてしまう。

この娘を、女として想っていると。


だが、それを口にすることはできなかった。


レオンハルトは目を伏せ、短く応じる。

「……そうか」


静かな声は、熱を覆い隠していた。


灯火に揺れる馬車の影で背を向ける。


「戻れ。お前の立つ場所は、王宮の光の下だ」


扉が閉じる直前まで、青いドレスの姿が焼きついていた。


――胸に残ったのは、消せぬ痛みだけ。

夜の闇がそれを呑み込んだ。


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散財悪女シンディアの真実 福嶋莉佳 @shiu-aruma

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