2. 縁側の恋歌

その日から、二人の時間は、まるで蜂蜜を煮詰めるように、甘く、穏やかに、そして濃密に流れ始めた。

義成は、自分のアパートを引き払い、殷の部屋に居候として転がり込む形になった。それはどちらからともなく言い出したわけではなく、あまりにも自然な流れだった。義成があの自堕落な部屋に戻ることは、殷が許さなかったし、義成自身も、もうあの孤独な闇の中に戻る気にはなれなかった。殷の小さな城は、二人のための巣へと姿を変えていった。

義成の心の傷は、日を追うごとに快方に向かっていった。もちろん、ビザを拒否された事実は消えないし、将来への不安が完全になくなったわけではない。だが、殷の存在が、その痛みを和らげる極上の軟膏となった。彼女は、彼の心の傷に直接触れることはしなかった。ただ、彼のそばにいて、笑い、語り、そして彼の話に耳を傾けた。その何気ない日常のすべてが、最高の治療だった。

日中は、部屋の南側にある小さな縁側で並んで過ごすことが多かった。春の柔らかな日差しが、心地よく二人を包む。義成は、これまで自分の内に溜め込んできた数多の知識を、堰を切ったように語り始めた。それは、知識のひけらかしではなかった。ただ、この聡明な年上の女性に、自分の見てきた世界を知ってほしかったのだ。二人はほぼ英語で会話し、所々お互いが勉強始めた日本語と韓国語で掛け合った。

「プラトンの『国家』では、哲学者が王になるべきだと説かれている。知識と権力が結びつかなければ、理想の国は生まれない、と。でも、歴史を見れば、権力は必ず知性を腐敗させる。どうすれば、そのジレンマから抜け出せるんだろう」

「マキャヴェッリは『君主論』で、愛されるより恐れられる方が安全だと言った。それは真理の一面かもしれない。でも、恐れだけで人を繋ぎとめることはできない。恐怖による支配は、脆いガラス細工のようなものだ」

彼の口から語られる言葉は、まるでその時代を生きてきたかのように生き生きとしており、殷を飽きさせなかった。彼女は大学で文学を専攻していたが、義成の知識の幅広さと深さには、ただ驚くばかりだった。彼は、西洋の哲学や歴史だけでなく、漢詩や日本の古典文学にも精通していた。

特に、彼が語る西洋の恋愛詩は、殷の心を甘くときめかせた。

「シェイクスピアはソネットの中でこう歌っている。『Shall I compare thee to a summer’s day? Thou art more lovely and more temperate.』(君を夏の一日にたとえようか?いや、君はもっと美しく、もっと穏やかだ)。激しい夏の日は、やがて嵐を呼び、その美しさを失う。でも、君の永遠の夏は、色褪せることがない、と」

義成は、記憶の泉から言葉を汲み出すように、よどみなく原語で暗唱し、そして優しい声でその意味を説いた。彼の声の甘さに、殷は自分の頬が熱くなるのを感じた。

(この方は、本当に不思議な方…)

十八にも満たない若さで、これほどの知識と、そして人の心の機備を理解している。かと思えば、ふとした瞬間に、まるで悪戯を思いついた子供のような、歳相応の無邪気な笑顔を見せる。その抗いがたいギャップに、殷はますます強く、深く惹きつけられていった。

一方の殷も、自分のことを少しずつ語り始めた。厳格な父と優しい母のこと。ソウルの喧騒の中で育った少女時代のこと。そして、四人の兄たち、なぜ日本に来ようと思ったのか。

「私、ずっと息苦しかったんです。韓国の社会は、とても競争が激しくて。良い大学に入って、良い会社に就職して、良い人と結婚する。それ以外の道は、まるで存在しないかのように扱われる。私は、ただ、違う空気が吸いたかった。違う価値観に触れてみたかったんです」

義成は、決して彼女の言葉を遮ったり、安易な意見を言ったりはしなかった。ただ黙って、深く、温かい眼差しで、彼女のすべてを受け止めるように頷きながら、耳を傾けた。その絶対的な安心感に、殷は、これまで誰にも見せたことのなかった心の柔らかな部分を、解き放っていくことができた。彼になら、自分の弱さも、みっともなさも、すべてを曝け出せるような気がした。

ある晴れた午後、義成は、殷を誘って近くの公園まで散歩に出かけた。まだ長い距離を歩くことはできない。だが、一歩一歩、土の感触を確かめるように歩く彼の横顔は、以前とは比べ物にならないほど自信に満ちて見えた。

公園の片隅に、ひっそりと白い花が一面に咲いている場所があった。

「わあ、きれい…」

殷が、思わず足を止めて声を上げた。

「それは、どくだみという薬草だ。漢字では『毒矯み』と書く。毒を抑える、という意味があるんだ。昔から、傷の手当てや解毒に使われてきた」

義成はそう言うと、こともなげにそのうちの一輪を摘み、殷の方へ向き直った。

「…!」

彼は、その白い十字の花を、殷の艶やかな黒髪にそっと挿した。

「毒を矯める花は、君によく似合っている。俺の心の毒を、あなたが癒してくれたように」

彼の指先が髪に触れた瞬間、全身に甘く、微かな痺れが走った。花の清らかな白さと、自分の黒髪の鮮やかな対比が、急に意識されてたまらなく恥ずかしくなる。

「…からかわないでください」

そう言って俯くのが精一杯だった。心臓が、早鐘のように激しく鳴り響いている。

「からかってなんかいない。本心だ」

義成は、心の底からそう思っているかのように、穏やかに微笑んだ。その真摯な瞳を直視できず、殷は俯いたまま、耳まで赤くなっている自分を感じていた。

年下の男の子。そう思っていたはずなのに。いつの間にか、自分は彼の一挙手一投足に心を乱され、翻弄されている。二十五年間生きてきて、感じたことのない種類の感情だった。それは、年上の女性としてのプライドを心地よく破壊し、ただの「女」としての自分を覚醒させる、危険で甘美なときめきだった。

その帰り道、二人は一つの約束をした。

「殷さん。俺、もう一度大学を目指そうと思う」

義成の言葉に、殷は驚いて顔を上げた。

「でも、日本の大学に。そして、あなたと一緒に通いたい」

海外への道が閉ざされた今、彼が見つけた新しい道。それは、彼女と共に歩む道だった。

「あなたの学力に合わせて、俺も勉強する。だから、一緒に頑張ってくれないか」

それは、プロポーズにも似た、真剣な響きを持っていた。殷の瞳から、涙が溢れそうになるのを、ぐっと堪えた。

「…はい。喜んで」

彼女は、力強く頷いた。髪に挿された白い花が、かすかに揺れた。

二人の間には、もう迷いはなかった。同じ目標を見据え、手を取り合って歩いていく。その決意が、二人の魂をより固く結びつけていた。

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