3. 甘く、痛む、夜の儀式

季節は夏を迎え、夜風が少しだけ湿り気を帯びるようになった。

それぞれの学校に通い始め、二人の生活は、規則正しく、そして充実していた。昼間はそれぞれの授業を受け、夜は殷の部屋の小さなテーブルで、並んで机に向かう。わからない問題を教え合ったり、どちらが先に単語を覚えられるか競争したり。そのすべてが、輝くような青春の一ページだった。

義成の心の傷は、もはや彼の表情に影を落とすことはなかった。しかし、その傷が完全に消え去ったわけではないことを、殷は知っていた。時折、彼は悪夢にうなされた。戦場の悪夢ではない。彼が見るのは、冷たいガラスの向こうで、無表情な役人が首を横に振る夢。自分の努力が、存在が、いとも簡単に否定される、あの日の悪夢だった。

「…やめろ…」

苦しげな呻き声に、殷は目を覚ます。隣の布団で、義成が汗びっしょりになり、何かに抵抗するように身を捩っていた。

「義成さん、大丈夫。大丈夫ですよ」

殷は、そっと彼の上に身を屈め、その体を優しく抱きしめた。

「私は、ここにいますから。あなたは、一人じゃない」

子守唄を歌うように、彼女は義成の背中を、ゆっくりと、何度も何度もさすり続ける。その温もりと、彼女の肌から香る石鹸の優しい匂いに包まれていると、義成を苛んでいた拒絶の恐怖や無力感が、まるで遠い世界の出来事のように思えてくるのだった。

彼は、殷の腕の中で、次第に呼吸を落ち着かせ、やがて赤子のような安らかな寝息を立て始める。

その寝顔を見つめながら、殷は、自分の中に芽生えた感情が、もはや単なる同情や憐憫ではないことを、はっきりと自覚していた。

この傷ついた若き龍を、守りたい。この聡明で、脆くて、そして誰よりも優しい魂を、自分のすべてで癒したい。そして、誰にも渡したくない。

それは、母性にも似た、しかしもっと切実で、烈しい、まぎれもない恋心だった。彼に触れたい。彼と、もっと深く、一つになりたい。その想いは、日ごとに彼女の中で大きくなっていった。

そして、月が冴え冴えと夜空にかかる、そんな夜が訪れた。

虫の音が、りん、りんと、心地よく響いている。

その夜、義成は悪夢を見なかった。代わりに、彼は、隣で眠る殷への抑えがたいほどの愛しさを胸に、静かに目を覚ました。隣で眠る彼女の寝顔は、障子越しの柔らかな月の光を浴びて、まるで精緻な白磁の作品のように滑らかで、神々しいまでに美しかった。

そっと、その頬に手を伸ばす。

ためらいがちに触れた指先に伝わってきた肌の、驚くほどの柔らかさと温かさに、義成の体中に甘い電流が走った。

「…ん…」

殷が、心地よさそうに身じろぎをした。長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開かれる。その潤んだ瞳が、暗闇の中で義成の姿を捉えた。

「義成…さん…?」

「すまない、起こしてしまったか」

彼の声は、欲望ではなく、純粋な愛しさで震えていた。

「いえ…」

殷は、体を起こした。寝間着の浴衣が少し乱れ、月の光に照らされた彼女の滑らかな肩のラインが、あらわになる。義成は、ごくりと息を飲んだ。その白い肌は、まるで上質な絹のように見えた。

沈黙が、部屋を支配する。

だが、それは気まずいものではなかった。むしろ、言葉を必要としないほど、濃密な感情が、二人の間に満ち満ちていた。視線が絡み合い、互いの魂の奥底を探り合うような、深く、静かな時間が流れる。

先にその沈黙を破ったのは、義成だった。

「殷さん」

彼は、彼女の名前を呼んだ。ただ、それだけ。しかし、その響きには、これまでの感謝と、尊敬と、そして焦がれるような愛情の、すべてが込められていた。

その声を聞いた瞬間、殷の瞳から、一筋の涙がはらりとこぼれ落ちた。

「なぜ、泣くんだ?」

義成が、慌ててその涙を指先でそっと拭う。

「わからない…でも、あなたの声を聞いていると、胸が、苦しくて…温かくて…」

それは、悲しみの涙ではなかった。喜びと、愛しさと、そしてほんの少しの切なさが入り混じった、温かい涙だった。年下の、まだ少年ともいえる彼に、これほどまでに心を揺さぶられている自分。その戸惑いと、抗いがたいほどの幸福感が、彼女の涙腺を刺激したのだ。

「俺は、あなたに救われた。地獄の底から、引き上げてもらった」

義成の声は、真摯に、そして力強く響いた。

「俺は、まだ若く、未熟者だ。あなたに与えられるものなど、何もないのかもしれない。英国や米国の大学の合格通知のように、結局は無価値なものしか、持っていないのかもしれない。だが…」

彼は、言葉を区切り、殷の瞳をまっすぐに見つめた。その瞳には、一点の曇りもなかった。

「俺の、すべてを捧げたい。この命も、この心も、この未来も、すべて、あなたに」

それは、あまりにも純粋で、あまりにもまっすぐな告白だった。

殷は、もはや何の抵抗もできなかった。彼女の理性の最後の砦は、その言葉の前に、幸福なため息と共にもろくも崩れ去った。彼女は、静かに、そして深く頷くと、自らその身を義成に委ねるように、彼の方へ体を寄せた。

どちらからともなく、唇が重なった。

最初は、触れるだけの、羽根のように優しく、そしてためらいがちな口づけ。やがて、それは、お互いの魂の形を確かめ合うように、深く、熱を帯びていく。義成のまだあどけなさの残る唇が、しかし力強く殷の柔らかさを求め、殷はそれに応えるように、そっと唇を開いた。

義成のたくましい腕が、殷の華奢な体を強く、しかし壊れ物を扱うように優しく抱きしめる。殷は、彼のたくましい首に腕を回し、その身を完全に預けた。

彼の体からは、若々しい雄の匂いと、陽の光の清潔な匂いがした。彼女の体からは、甘い花の香りと、母なる大地を思わせる温かい匂いがした。二つの匂いが混じり合い、むせ返るような官能的な空気が、月明かりの部屋を満たしていく。

夜の儀式は、甘く、そしてどこか神聖ですらあった。

義成は、殷の体を、まるで初めて触れる聖なる書物を紐解くかのように、丁寧に、そして愛おしむように愛撫した。彼の指が、彼女の浴衣の合わせ目に触れ、ゆっくりと、その内側へと進んでいく。その一つ一つの動きに、彼女への深い敬意が感じられた。

あらわになった彼女の肌は、月の光を浴びて乳白色に輝いていた。彼の指がその柔らかな丘や、くびれた谷をなぞるたびに、殷の体は、びく、びくと甘く震える。それは、彼女自身も知らなかった、新たな感覚の扉を次々と開いていくようだった。

一方の殷も、彼のたくましい体を探るように触れた。そして、彼の背中や腕に残る、いくつかの古い傷跡を見つけると、そこに慈しむように、一つ一つ口づけを落としていった。それは、彼の過去の痛みを、自分の愛で包み込み、癒したいという、彼女の魂からの行為だった。

「痛みますか…?」

「いや…あなたの唇が触れると、傷が喜んでいるようだ。まるで、この瞬間のためにあった傷のように思える」

そして、義成が彼女の中に、自らの熱を導き入れようとした、その瞬間。

「あっ…!」

彼の表情が、苦痛に歪んだ。無理な体勢が、まだ完全には癒えていない心の古傷と連動し、体に鋭い痛みを走らせたのだ。

「義成さん、無理しないで…!」

殷の胸が、きゅっと締め付けられるように痛んだ。

「大丈夫だ…」

彼は、額に汗を滲ませながらも、穏やかに微笑んだ。

「この痛みは、俺が生きている証だ。そして…あなたを感じている証だ」

その痛みこそが、二人が一つに繋がっている証だった。彼の痛みは、彼女の痛み。彼女の喜びは、彼の喜び。肉体だけでなく、魂の奥深いところで、二人は溶け合い、一つになっていく。痛みと快感が、切なさと愛しさが、螺旋を描きながら、二人を高みへと誘っていく。

「愛している…殷」

彼の掠れた声が、彼女の耳元で囁かれる。

「私も…私も、あなたを愛しています…義成さん」

涙と、汗と、吐息が混じり合う。

激しい情熱の波が最高潮に達したとき、義成は、天を仰いで、長く、深く息を吐いた。それは、過去の苦しみからの解放であり、新たな生への産声のようにも聞こえた。

やがて、嵐が過ぎ去った後の、絶対的な静寂が、二人を包んだ。

絡み合った体をそのままに、二人は互いの心臓の鼓動と、温もりを感じていた。

義成の腕の中で、殷は、これまでの人生で感じたことのないほどの、完全な満ち足りた幸福感に包まれながら、静かに目を閉じた。

傷ついた若き龍は、今、その翼を休めている。

彼を癒す清らかな泉のほとりで、生涯を共にするであろう伴侶を見つけ、穏やかな休息の時を過ごしている。

長い、長い夜が明けようとしていた。窓の外の空は、最も深い藍色から、希望を孕んだ紫色へと変わり始めている。

新しい一日が、そして、新しい人生が、もうすぐ始まろうとしていた。

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