第一章 龍の安息 1. 夜明けの変身

“The greatest healing therapy is friendship and love.”

(最も偉大な癒しの療法は、友情と愛である)

– Hubert H. Humphrey/ヒューバート・H・ハンフリー


1. 夜明けの変身

夜が明ける。

薄青い光が、李殷が昨日急いで取り付けたばかりのカーテンの隙間から、一条の帯となって差し込んでいる。部屋の輪郭が、深い藍色の闇の中からゆっくりと、しかし確実に浮かび上がってきていた。義成は、ここ数ヶ月、いや、英国と米国の大使館で冷たい拒絶の言葉を浴びせられて以来、一度も感じたことのないほどの、穏やかな目覚めの中にいた。体の節々に巣食っていた鉛のような重さが、奇跡のように和らいでいる。深く、意識のない泥のような眠りではなかった。むしろ、水面に浮かぶ木の葉のように、浅く、しかし心地よい微睡みを揺蕩うような、そんな質の眠りだった。

隣の布団からは、すぅ、すぅ、と清らかな寝息が聞こえる。

それは、昨夜、悪夢にうなされ、自暴自棄の記憶が作り出した暗い沼の底へ沈んでいこうとする自分を、力強く、しかしどこまでも優しく引き戻してくれた生命の音だった。

そっと首を巡らせる。

そこに、李殷の穏やかな横顔があった。長い睫毛が影を落とし、わずかに開かれた桜色の唇から、あたたかな生命の息吹が清らかに零れている。昨夜、この部屋に転がり込み、彼女の孤独に自分の孤独を重ね合わせた。この女性(ひと)がいてくれた。ただ、そばにいてくれた。それだけで、砕け散ったはずの自分の魂の破片が、少しずつ寄せ集まっていくような感覚があった。

殷は、義成の視線に気づいたかのように、ゆっくりと瞼を上げた。眠りの淵から浮上してきたばかりの琥珀色の瞳が、朝の光を吸い込んで、ぬくもりを帯びた蜂蜜色にきらめく。その瞳に自分が映っていることに気づき、義成の心臓が小さく跳ねた。

「…おはようございます、義成さん」

まだ少し掠れているが、その声は涼やかな鈴の音のように心地よく耳に響いた。

「ああ…おはよう、殷さん」

義成は、無意識のうちに笑みを浮かべていた。それは、ここ最近の彼が見せたことのない、心からの微笑みだった。心の奥深くに突き刺さっていた氷の棘が、ひとつ、またひとつと溶けていく。挫折の痛み、存在を否定された屈辱。それらが消え去ったわけではない。だが、その痛みはもはや、彼を苛み、闇へと引きずり込むだけの絶対的な存在ではなくなっていた。

立ち上がろうとして、義成は自分の体の異変にはっきりと気づいた。寝間着は冷たい汗でじっとりと湿り、不快に肌に張り付いている。顎から頬にかけて、無精髭がざらざらと伸び、指で触れると自分のものとは思えないほど荒んでいた。伸びっぱなしの髪は、枕に擦れて無残に絡まり、まるで鳥の巣のようだ。

自暴自棄の日々では、気にも留めなかったことだ。生きる意味さえ見失っていたのだから、身なりを構う余裕などあるはずもなかった。しかし、今は違う。この穏やかで清浄な朝に、この清らかな女性の前に、この不潔な姿でいることが、ひどく、耐え難いほどに恥ずかしかった。自分の中から湧き上がったその羞恥心に、義成自身が驚いていた。それは、死んでいた感覚が、再び蘇った証だった。

「…少し、体を清めたい。近くに銭湯はあるだろうか」

義成の言葉に、殷はこくりと頷き、静かに立ち上がった。

「銭湯もいいですけど、もしよろしければ、ここのシャワーを使ってください。タオルも、新しいものがありますから」

その申し出は、義成にとって救いだった。すぐに湯の準備をすると、彼女は手拭いや着替えまで手際よく整えてくれる。義成が持ってきたものなど何もない。彼女は、まだ荷解きも終わっていないダンボールの中から、父親のものであろうか、少し大きめの清潔なスウェットとTシャツを見つけ出してくれた。その無駄のない、流れるような所作に、義成は改めて感心した。彼女はただ優しいだけではない。聡明で、地に足のついた強さを持っている。

義成がシャワーを浴びている間、殷は静かに朝食の準備を始めた。昨夜と同じコンビニのものではなく、米を研ぎ、小さな鍋で粥を炊く。故郷の母がよく作ってくれた、体に優しい、温かい粥。まだ慣れない日本のキッチンで、彼女は懸命に、この傷ついた青年を癒すための食事を用意していた。

シャワーの熱い湯が、義成の体を打ち、心身にこびりついた垢を洗い流していく。石鹸の清潔な香りが、淀んだ思考を浄化していくようだった。

そして、彼は鏡の前に立った。

まずは、この忌ましい無精髭からだ。殷がそっと置いてくれた、新品のカミソリとシェービングクリーム。きめ細やかな泡を丁寧に塗り込み、ひんやりとした刃を肌に滑らせる。ジョリ、ジョリという小気味よい音と共に、挫折と絶望の象徴だった髭が、過去の残骸が、次々と削ぎ落とされていく。

次に、濡れた髪を櫛で梳かし、絡まりを解いていく。幸い、殷の荷物の中に小さな散髪用のハサミがあった。彼は器用に、伸びすぎていた襟足や耳周りの髪を切りそろえた。

すべてを終え、彼女が用意してくれた清潔なスウェットに着替えて、再び鏡の前に立つ。

そこにいたのは、自分であって自分でないような、不思議な青年だった。

自堕落な生活で失われていた肌の艶が戻り、まだ若々しい張りを放っている。無駄な肉が削ぎ落とされた体は、長年の新聞配達と鍛錬によって、しなやかな獣のように精悍だった。しかし、その瞳の奥には、十八歳という年齢にはそぐわない、深い苦悩と、それを乗り越えようとする意志の光、そして彼が読み耽ってきた数多の書物が与えた知性の輝きが宿っている。

少年とも青年ともつかぬ、危うい均衡の上に立つその姿。そこから、むせ返るような、しかし決して不快ではない、力強い青春の匂いが立ち上っていた。

部屋に戻ると、炊き上がった粥の優しい匂いが鼻をくすぐった。小さなテーブルの上には、土鍋から湯気の立つ粥と、いくつかの小皿が並べられている。殷が、義成の姿を認めると、わずかに目を見張り、その動きを止めた。

「…まあ…」

驚きと、そして隠しようのない感嘆の色が、彼女の表情に浮かぶ。その頬が、ぽっと赤く染まったのを、義成は見逃さなかった。彼は少し照れくさくなりながら、テーブルの前に腰を下ろした。

「さっぱりいたしましたね。とても…素敵です」

殷は、そう言うと、自分でもその言葉の大胆さに気づいたかのように、慌てて視線を伏せた。彼女がよそってくれた粥の茶碗を、義成は両手で包み込むように受け取る。その温かさが、じんわりと心にまで沁み渡った。

「ありがとう。世話をかけた」

「いえ…」

殷は、まともに義成の顔を見ることができなかった。昨日まで、痛々しい傷と疲労にその輝きを覆われていた少年の姿は、どこにもない。そこにいるのは、瑞々しい生命力に満ち溢れた、ひとりの雄(おす)だった。研ぎ澄まされた刃のような鋭さと、春の陽光のような柔らかさ。そのアンバランスな魅力が、殷の心を強く、激しく揺さぶった。

(年下だと、思っていたのに。まだ、子供だと…)

だが、違う。彼は、多くの死線を乗り越えてきた兵士のように、人の世の理不尽さをその身に刻みつけた、歴とした男なのだ。そして同時に、まだ何色にも染まっていない、無限の可能性を秘めた少年でもある。その多面的な輝きが、二十五歳という、分別を重んじるべき年齢にあるはずの殷の理性を、少しずつ麻痺させていくのを感じていた。

義成は、粥を一口、口に運んだ。ごま油の香ばしい匂いと、塩だけのシンプルな味付け。しかし、それはどんなご馳走よりも彼の疲れた体に優しく、そして深く染み渡った。

「…うまい」

ぽつりと漏れたその言葉に、殷の顔が花が咲くように輝いた。

「よかった」

その笑顔を見て、義成は、自分はもう大丈夫だ、と確信した。この笑顔がある限り、自分はもう道を踏み外すことはないだろう。

この朝の食卓は、二人の新しい関係の始まりを告げる、静かで、しかし厳かな儀式だった。

そして、その頃、高円寺の古いアパートでは、義成の両親が、息子の昨夜の無断外泊に何も言わず、ただ静かに彼の帰りを待っていた。息子の心の傷の深さを理解しているからこそ、彼らは信じていた。傷ついた龍が、自らの意思で安らげる寝床を見つけ出すことを。そして、その休息が、新たな飛翔のための力を蓄える時間となることを。二人は、息子の変化を、ただ静観することに決めたのだ。それは、言葉にならない、深く、温かい親心の発露だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る