第9話 居候の夜
玄関の灯りがつくと、御影は無造作にジャケットを脱ぎ、玄関脇のフックにかけた。
「へぇ、きれいだね。」
部屋の中を一通り見回しながら、彼はまるでアトリエのレイアウトでも確認するかのような目で呟いた。
「人が住んでるようには見えない。」
篠原は無言でスリッパに履き替え、淡々と返す。
「昼間は家にいない。普通だ。」
御影はダイニングの方へ歩いて行き、キッチンをちらりと見て鼻を鳴らした。
「なるほど、モデルルームみたい。インスタントの匂いすらしない。」
篠原が軽く目線をやる。
「食いたきゃ、自分で買ってこい。」
「オッケー。近くにコンビニくらいあるよね?」
そう言いながら御影は気楽に肩をすくめるが、篠原は黙ったまま鍵を手に取った。
「行くぞ。」
「今から?」
「スーパーだ。」
声のトーンが低く、拒否を許さない。
御影は一瞬目を見開き、それからふっと笑った。
「……男二人でスーパー?勘違いされたらどうする?」
「くだらない。さっさと行け。」
その言い方に、御影は肩を揺らして笑いながら後を追う。
「篠原先生のスーパーショッピング、見応えありそうだね。」
スーパーの棚は眩しいほど明るく照らされていた。
篠原は真剣な表情で野菜を手に取り、葉の状態や水分を丁寧に確認する。
まるでキャンバスの素材を鑑定しているかのような目つき。
御影は片手でバスケットを回しながら、その後ろを気ままについていく。
「見る目あるね。」
「ジャンクばかり食えば、体も鈍る。」
篠原は牛乳をバスケットに入れながら淡々と答える。
御影が斜めに視線を送る。
「なるほど。だから体型も維持できてるってわけか。……アートヌードのモデルでもやれそうだな。」
その言葉に、篠原は鋭く振り向いた。目で「ふざけるな」と言っていた。
返事をせず、次の棚へと歩き出す。
夕食は味噌煮の魚と温野菜。シンプルだが、湯気の立つ皿がテーブルに並ぶと、どこか家庭の香りがした。
御影は椅子に腰掛けながら、目を細める。
「まるで家庭の食卓だね。……描いてもいい?」
「……料理?」
「君。」
篠原の箸がぴたりと止まる。
眉間にうっすら皺が寄った。
「……人のスケッチが好きなんだな。」
御影は箸を回しながら、少しトーンを落とした。
「いや……金がなかった頃はよく描いたよ。カップルに速描きして二千円もらって、その日を食いつなぐ。」
彼の声はさらりとしていたが、どこか遠い記憶をなぞるようだった。
「でも君は違う。……君を描きたいのは、金のためじゃない。」
篠原は黙って視線を外す。
「……くだらない。」
御影は低く笑う。
「まあ、冗談じゃないかもね。住むところもないし、明日からまた公園にでも行く?」
「ふざけるな。」
ようやく顔を上げた篠原の目には、いつもの冷静さが戻っていた。
御影はそれ以上茶化さず、箸を進める。
「……でも、本当に美味いな。魚の火入れ、料亭並だよ。」
「言いすぎだ。」
「いや、マジで。」
御影は椅子にもたれ、ふと目を細める。
「君さ、結婚してないの?」
箸を置いた篠原が、少し間を置いて答える。
「仕事が不規則だ。海外鑑定も多いし、帰国しても毎日資料漁り。……交際してる暇なんかない。」
「なるほど。まじめすぎて、女ウケしなさそう。」
「余計なお世話だ。」
「はいはい。」
食器を片付けに立ち上がる篠原を、御影は黙って見送る。
その背に、意味深な微笑みを浮かべた。
シャワーを終えた御影が、髪を拭きながら出てくる。
「客間は右。俺が風呂から出たら、布団を渡す。」
「了解、っと。」
軽く敬礼のような仕草を見せ、御影は廊下の一室へ。
部屋の中には、鉛筆と紙の匂いがかすかに漂っていた。
壁際の大きな机の上には、スケッチブックや絵の具箱が置かれ、中央のイーゼルには白布が掛けられている。
御影は布をそっとめくった。
――そこに現れたのは、篠原の自画像。
厳しい線、鋭いまなざし。
まるで自己を裁くために描かれたような、冷たい肖像画。
「……君、他人だけじゃなく、自分も裁くんだね。」
呟いた声には、妙な興味とほんの少しの哀れみが混ざっていた。
視線を落とすと、机の上に散らばった資料の中に、《青のたそがれ》の分析レポートがある。
赤ペンの書き込みが無数にあり、まるで古傷を何度も開いては閉じた跡のようだった。
御影は指でその紙をなぞり、低く呟いた。
「……まだ、引きずってるのか。」
布を丁寧に戻し、何事もなかったかのように部屋を出た。
風呂上がりの篠原が、タオルを肩にかけたまま現れる。
「布団だ。」
客室前にそれを置き、短く言ったあと、一言だけ加える。
「……勝手に俺の部屋を覗くな。」
御影はドアにもたれかかり、両手をポケットに入れてにやりと笑う。
「なんでバレた?」
「顔に出てる。」
冷たい口調で告げると、御影はすっと肩をすくめる。
「でもさ……いい絵だったよ。」
あの部屋の方向を顎で指しながら、悪戯っぽく言う。
「まさか君が絵を描くなんて。いつもは他人の絵にケチつけるほうだと思ってたのに。」
篠原は少しだけ間を置き、低く答えた。
「高校のときに、少しだけ習った。……恩師に出会って、こう言われた。
『描くより、見る目を磨け。』」
そう言って、話を切った。
御影の表情が一瞬だけ引き締まる。
「だからか……《青のたそがれ》に、あんなにこだわるのは。」
彼の声には、探るような鋭さがあった。
「……君、佐伯の弟子だったのか?」
沈黙が落ちる。
篠原の目が、御影を鋭く見つめる。
御影はわずかに口元を緩め、のびをしながら軽くかわす。
「さぁね。……自分で調べてみれば?」
布団を抱えて部屋へ入るとき、御影は手をひらりと振った。
「おやすみ、鑑定士さん。」
バタンとドアが閉まる音が、廊下に響く。
その前に立ち尽くす篠原の眉間には、深い皺が刻まれていた。
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