第8話 濡れた警告
調査の後、篠原は警察署には戻らず、遠回りして国際美術館へ向かった。
午後の光が広場に斜めに差し込み、観光客の姿はまばら。
展示室は封鎖され、どこか異様な静けさが漂っていた。
《双子の夢》がかけられていた展示室は、警戒テープで囲まれ、空虚な気配だけが残っている。
篠原はその前に立ち止まり、警告テープにそっと指を這わせた。
まるで――自分までもが真実から遠ざけられているような、そんな錯覚。
「篠原さん?」
背後から、聞き慣れた声がかかった。副館長・
まっすぐな姿勢のまま、どこか疲れの色を帯びた微笑みを浮かべている。
「最近は、本当にお世話になっています。」
高瀬は篠原の隣に立ち、軽く息を吐く。
「館長からの伝言です。警察とあなたの協力に、深く感謝しています。
……早く解決してもらわないと、展示が止まったままで、お客様からもクレームが来ているんです。」
目を展示室へ向けながら、続けた。
「作品が見られないというのは、美術館にとっても損失ですから。」
「真作の安全が確保されてから、再公開する。」
そう返した自分の声に、篠原は一瞬だけ戸惑う。
――まるで自分自身を納得させるための言葉のようだった。
高瀬がふと何かを思い出したように、手を叩く。
「ああ、そうだ。あなた宛ての封筒を受け取って、机の上に置いておきましたよ。」
篠原は館内の事務室へ向かい、机の上に置かれた白い封筒を見つけた。
差出人の記載はなく、消印もない。
眉をひそめながら封を切る。
中から滑り落ちたのは――光を反射する一枚のカッター刃。
その瞬間、刃が指先をかすめた。
細く切れた傷口から、血が紙面に滲み、小さな赤い花のように広がる。
息を止めたまま、便箋を広げる。
書かれていたのは、たった一文。
「これ以上続ければ、次は血だけじゃ済まない。」
篠原は無言のまま、刃と手紙を透明の封筒に収め、美術館の警備室へ提出。
その後、文化財対策課に連絡を入れた。
電話を切った頃には、午後の光が机の上の血痕を鋭く照らしていた。
胸の奥に、重く冷たいものが沈み込んでいく。
──これは脅しではなく、警告だ。
真実に、触れてはならない場所へ踏み込もうとしている証。
翌朝、
対策課の臨時指揮室には、相変わらず資料と人の波が渦巻いていた。
若い警官が検査報告書を手に駆け込む。
「脅迫状には消印なし。直接、美術館のポストに投函されたようです。」
さらにページをめくる。
「指紋は照合中。インクと紙の成分も鑑識に送ってます。結果は今夜には。」
課長は報告書を受け取り、眉間に深い皺を刻んだ。
「調査と関連している可能性もあるし、ただの嫌がらせかもしれない。だが、油断はできん。」
彼は篠原に目を向ける。
「最近、誰かに恨まれるようなことでもしたか?館関係者、コレクター、画商……全員のリストを出してくれ。」
篠原は一瞬黙り、低く答えた。
「この業界じゃ、トラブルは日常茶飯事だ。
一枚の絵に何百万も払った人間に、俺が『贋作だ』って言えば、価値は半分以下になる。」
そして、指先に自然と力が入る。
「真実を求めているわけじゃない。…ただ、本物だと認めてほしいだけだ。」
そのとき、部屋の外から軽やかな足音が聞こえた。
御影が入ってきた。手には炭筆をくるくると回している。
「おや?今日はずいぶんとピリついてるね。」
彼は炭筆を無造作に机に放り、部屋の空気を一瞥し、
篠原の指に貼られた絆創膏に目を留める。
次の瞬間――
篠原の腕をぐっと掴み、手を反転させて傷を覗き込んだ。
「……怪我?」
彼は身を乗り出し、まるで絆創膏を剥がして確かめようとするような勢いだった。
篠原は反射的に腕を引こうとするが、御影の手はそれより速く、さらに強く握る。
言葉を発する前に、課長が口を挟んだ。
「昨日、美術館で脅迫状が届いた。封筒にはカッター刃が同封されていて、篠原が開封時に怪我をした。
鑑識には既に回してある。指紋とインクは解析中だ。」
御影は一瞬瞬きをし、その後で、ふっと小さく笑った。
「……面白いね。」
視線が血の跡に向けられ、その声は冗談とも、本気ともつかない。
「君も、ついに追い詰められる側か。」
課長は眉をひそめ、低く釘を刺した。
「御影さん、冗談では済まない話だ。」
御影の目がふっと細まり、声の調子が変わる。
「分かってるよ。本当に殺す気なら、あんな手紙なんか送らない。」
沈黙が落ちた。
蛍光灯の微かな音だけが、部屋を満たしていた。
篠原は微かに指先を強くし、御影はようやくその手を離した。
課長が咳払いし、話を戻す。
「もうひとつ、報告がある。」
彼は一冊のファイルを机に置き、声をひそめる。
「今朝未明、御影さんのアトリエで天井からの水漏れが発生。
作業室の絵も画材も水をかぶって、ほぼ全滅だった。」
「……全部、濡れたのか?」
篠原が反射的に問い返す。
御影は肩をすくめ、明るく答えた。
「全部アウト。先週買った新しい絵の具までパー。……もう心が死んだね。」
そう言って笑ってみせたが、瞳の奥にかすかな影が走った。
それはただの金銭的損失ではない――もっと深い「喪失」だった。
課長は重々しく言った。
「現場を確認したところ、配管はたしかに老朽化していた。
だが、昨日の脅迫状とあわせて考えると、単なる事故とは考えにくい。
――君たちは、すでに誰かに狙われている可能性がある。」
御影は眉を上げ、笑みを取り戻したように言う。
「それなら、いっそ篠原さんの家に転がり込んだほうが安全じゃない?
警察の監視もつけられるし、二人でいたほうがリスクは減る。」
「……無理だ。」
篠原の声は低く、即答だった。
御影はすでに聞いていないように続ける。
「大きな家に一人で住んでるんでしょ?
心配しなくても、ちゃんと静かにしてるよ。」
篠原は数秒間黙っていたが、明確な拒否理由が浮かばない。
課長が口を挟む。
「確かにリスク回避にはなる。私も賛成だ。」
御影はにっこりと笑った。
「ほら、警察のお墨付き。」
篠原は指先を握りしめ、短く吐き出す。
「……好きにしろ。」
御影は炭筆をポケットに差し込み、出口へと軽やかに向かう。
「じゃあ、お世話になります~」
その背中を見送りながら、篠原はひそかに頭を抱えた。
――この先、ややこしいことになる。
それだけは、確信できた。
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