第7話 影をなぞる指

 三日後、課長は対策班の緊急会議を招集した。


 強化処理を終えた監視映像では、帽子を被った人影の輪郭がやや鮮明になり、

 その姿が闇市の常連の一人であることが判明した。


「最近、やたらと動きが活発だ。次の取引を企んでる可能性が高い。」

 課長は写真を机に滑らせた。

「今夜から張り込みを開始する。現行犯で押さえるぞ。」


 御影は眉を上げ、口の端を持ち上げる。

「ようやく面白くなってきたな。」


 篠原は写真をじっと見つめ、長い沈黙ののち、静かに頷いた。

「……俺も行く。」




 夜の帳が降りる頃、裏通りのネオンが二度瞬き、湿った路面に鈍く反射した。


 篠原はパトカーの横に立ち、両手をコートのポケットに突っ込んだまま、背筋をぴんと伸ばしていた。

 冷たい風が路地から吹き抜け、指先に自然と力が入る。


 御影は車のドアにもたれかかり、手をポケットに入れたまま、芝居でも見るような顔で笑みを浮かべていた。


「緊張してる?」

 からかうような口調で、彼は軽く頭を傾けた。


 篠原は応じず、前方をまっすぐ見据えたままだ。


 ──「ターゲット確認。」

 無線から低い声が響いた。


 路地の奥、古びた帽子を被った男が、丸めたキャンバスを抱え、

 待っていた別の男に近づいていく。


 相手はキャンバスを一瞥し、ポケットに手を伸ばした――


「今だ!」


 指揮官の号令と同時に、便衣の警官たちが両側から飛び出す。

 怒声が路地に炸裂した。


 買い手の男は絵を投げ捨て、そのまま走り出す。

 二人の警官がすぐさま追跡。

 残りの隊員は、帽子の男を地面に押さえつけた。


 篠原は動かず、地面に落ちたキャンバスを見つめた。


 御影がのんびりと歩み寄り、足先で紐を引っかけて巻き取る。

 キャンバスはゆっくりと広げられ――

 そこには、精巧に仕上げられた贋作が現れた。


 筆致は整い、構図は正確。古びた亀裂まで再現されており、

 一見すれば、どこかのコレクターの秘蔵品に見えてもおかしくない。


 御影はその絵を見下ろし、口元に薄い笑みを浮かべた。


「悪くない手つきだな。

 クラックの表現もまずまず。……でも、層の深みが足りない。偽物だって一発で分かる。」


 指で画縁を軽く叩きながら、さらりと続けた。


「この程度なら……数十万円で売れりゃいいとこだな。

 カフェのインテリアで客を騙すくらいなら、丁度いいかも。」


 篠原も膝を折り、手袋越しに絵の表面をなぞった。

「これは――モディリアーニの《横たわる裸婦》の贋作。」


 彼の声は、冷静かつ端的だった。

 一拍置いてから、警官に目を向けて補足する。


「真作の一つは、ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されている。

 この絵は、いずれの名簿にも載っていない。」


 彼は立ち上がり、手袋を外しながら口調を改めた。

「証拠品として押収。取調べを進めよう。」


 御影も立ち上がり、ズボンについた埃を軽く払いながら笑った。

「尋問のほうが、絵より面白そうだな。」




 翌朝――


 郊外にある古びたアパートの前に、警察車両が停まった。

 二階の端のドアには、剥がれかけた紙のネームプレートが貼られていた。


羽田はねだ」――そう書かれていた。


 先頭の警官が令状を確認し、頷く。

「昨晩、本人は身柄を確保済み。捜索令状もすぐに下りました。

 まずは証拠物品の確保を。」


 御影がプレートを一瞥し、口元に笑みを浮かべる。

「羽田……へぇ。」


 篠原は横目で彼を見るが、余計なことは訊かず、警官に合図する。


 錠前が壊され、ドアが軋む音を立てて開いた。

 室内には強い油絵具と溶剤の匂いが立ち込めていた。


 部屋は雑然としており、画架、チューブ、松脂の瓶が散乱している。

 隅には、未完成のキャンバスが何枚も重ねて立てかけられていた。


 篠原は手袋をはめ、布を一枚ずつ確認していく。

 やがて、視線がある一枚で止まった。


「……《双子の夢》。」

 低く呟いた声が、部屋に落ちる。


 キャンバスには、ラフな下描きと色の下塗りだけが施されており、

 他にも線画だけのものや、色ブロックだけの習作がいくつもあった。


 御影もそばにしゃがみ、数秒間無言で眺めた後、指先で布端をなぞった。

「これは完成品じゃない。習作だ。」


 彼は軽く笑いながら立ち上がり、隣の一枚をひっくり返す。

「……構図を覚え込んでから納品するつもりだったんだろ。

 でも、出来が悪くて突き返された。ってとこかな。」


 彼はさらりと言うが、口調には微かな棘が含まれていた。

「どの絵もミスがある。比率が狂ってるか、陰影がずれてるか。

 どれだけ描き込んでも、例の贋作レベルには届かないよ。」


 篠原が彼を見た。

「つまり、あの贋作を描いたのは羽田ではない……そう言いたいのか?」


「少なくとも、最後まで仕上げたのは別人だ。」

 御影は肩をすくめ、まるで当然だと言わんばかりに続ける。

「館の宝をすり替えるなら――もっと腕の立つ、目の利く人間が必要だ。」


 その言葉に、篠原の視線が鋭くなった。

「……たとえば、お前とかか?」


 御影は一瞬だけ虚を突かれたように瞬いたが、すぐに口元を緩める。

「……あらら。そう言われても、否定はしづらいな。」


 テーブルを指先で軽く叩きながら、挑むような視線を篠原に送る。


 篠原は無言で眉間を寄せ、部屋の片隅にある絵の具箱に目を向けた。

 そこに並ぶラベル――

 数日前に調べた材料の配合と、完全に一致していた。


「帳簿にあった画材は、確かにここに届いてるな。」

 立ち上がると、警官に指示を出す。

「絵の具とキャンバスは、すべて押収して。」


 御影は何気なく補足するように言う。

「でもね、帳簿の材料量とここにある使いかけの分、それに練習で塗り潰した分を合わせると、一枚の贋作どころか何枚も作れる量だぜ。」


 彼は目を細め、意味ありげに続ける。

「Mって奴は、たぶん複数の手に同時進行で描かせてるんだろうな。」


 篠原は何も言わず、横目で御影を見る。

 だが心の中では、ある不可解な感情が渦を巻いていた。


 ――御影は、これだけの情報を手に入れながら、

  自分の無実を主張しようとはしない。


 それどころか、むしろ事件の核心に踏み込もうとしている。


「本気で事件を解決したいのか、

 それとも……俺を、ある結論に誘導しようとしてるのか。」

 胸の奥に、複雑で冷たい何かが沈んでいく。


 篠原は、無意識に拳を握りしめていた。

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