第6話 薄明の舟影

 夜が更け、御影は自宅――兼アトリエに戻ってきた。


 部屋の灯りはつけられていない。

 薄闇の中、彼は静かに紙を広げ、一本の水平線を素早く描き出す。


 線が形を成し、遠くに小舟が浮かぶ。


 冷たい青と、くすんだ銀の灰――

 それは、彼の記憶の底から滲み出てくるようだった。


 御影は筆を止め、じっとその画面を見つめる。

 やがて、口元にうっすらと笑みが浮かんだ。


「……《青のたそがれ》か。」

 その声はとても小さく、夜の闇に溶けそうだった。


 彼はポケットから、皺だらけになった一枚の写真を取り出し、描いていた紙の上に置いた。

 それは、十年前の展覧会の写真だった。


 壁に飾られた《青のたそがれ》。

 その隣に立っていたのは、まだ少年の彼――


 長い前髪が顔を隠し、必死に涙を堪えるような、頑なな目つき。


 御影は、写真の表面を指先でゆっくりとなぞる。

 その仕草は、まるで記憶を確かめるようだった。


「……もう十年か。」

 呟きはかすかだったが、拭いきれない苦味が滲んでいた。


 写真の中の絵を見つめる彼の目が、鋭さを取り戻す。


「師匠は何も言わなかった。

 ただ、荒れたアトリエを片付けて……黙って筆を置いた。」


 彼は、乾いた笑みを漏らした。

 だがそこに、愉快さの欠片はなかった。


「――結局、みんな覚えてるのは、あの鑑定士の一言だけ。」

 指に力がこもり、紙の端がくしゃりと歪む。


 再びペンを手に取った時、線はさきほどよりも激しく、紙を切り裂かんばかりの勢いだった。


 脳裏に浮かぶのは、篠原の顔。


 十年前――冷たい展示室の照明の中、「これは贋作です」と言い放った声。

 そして先日――倉庫の床にしゃがみ、静かに画布を見つめるその姿。

 ……変わっていなかった。


 御影はふっと笑い、描いた紙を丸めてゴミ箱に投げ捨てる。


 が、しばらくして立ち上がり、もう一度その紙を拾い上げ、丁寧に広げて机に押しつけた。


 部屋の灯りが、初めて点いた。


 彼は再びペンを取る。

 だが今度、紙の中に現れたのは――


 小舟ではなかった。


 背中を向けた、篠原結人の姿。

 冷たく、張りつめた肩。

 まるで、海辺に取り残された孤島のようだった。




 店の調査が一段落しても、対策室の空気はぴりついたままだ。


 ホワイトボードには写真や記録がびっしりと貼られ、赤と黒の線が交差し、未完成の網のように広がっている。


 課長は腕を組んだまま、目を細めていた。

「監視映像の強化結果はまだか?」


 当直の警官がすぐに答える。

「映像分析課が照合中ですが……あと少し時間がかかるとのことです。」


 課長は苛立ちを隠さず、低く呟いた。

「……これ以上、引き延ばすな。

 犯人が動き出すのも時間の問題だ。」


 ホワイトボードの最上段には、三軒の店を結ぶ地図が並べて貼られていた。


 第一の店には、赤字でこう書かれている――

「コード名:M(Material)」

「特徴:帽子、ダークコート」「購入記録あり」


 第三の店の下には、監視映像から切り出されたシルエット写真と共に、

「コード名:H(Hand)」

「模写現場の証拠あり」


 その間には黒い線で「=?」と大きく書かれており、

 その脇に、「監視解析中」と急かすような注釈が添えられていた。


 篠原は、ホワイトボードの前に立ち、その「=?」にじっと目を据えていた。

 肩は硬く張り詰め、視線は動かない。


 一方、御影は壁にもたれ、薄く笑いながら線の交錯を眺めていた。

 まるで、未完成の絵画を楽しむ画家のように。


「面白いね。」

 御影は小さく呟いた。

「――材料を買った奴と、筆を動かした奴が、同一人物とは限らない。」


 篠原は低く返す。

「映像が出るまで判断は早い。」


 その言葉に、御影は笑みを深めた。




 その夜、篠原は遅くまで残業し、帰宅したのは日付が変わる頃だった。


 デスクには、昨夜のまま資料が広がっている。

 片づけもせず、彼はしばらく立ち尽くしたまま、それらを見下ろしていた。


 御影の言葉が、ふと脳裏に浮かぶ。


『もしさ……俺が、初めてを描いたら――

 あんた、見抜ける?』


 篠原は、再び新聞の切り抜きを掲示板に留め直した。

 指先が、黄ばんだ紙の端に触れ、長い時間、そこから離れなかった。

 窓の外では雨が止み、夜の静けさが、不快なほどに続いていた。




 数日後――


 篠原は、引き続き文化財対策課で資料の整理を続けていた。

 御影も、時おり姿を見せては、部屋の中で自由気ままに振る舞っていた。


 椅子の背に足をかけて揺らしたり、女性警官と低く笑い合ったり――

 まるで、ここが自分のアトリエであるかのように。


 資料に没頭していた篠原の手が、ふと止まる。

 その声と笑いが耳に触れるたび、胸の奥にざらついた何かが広がる。


 机の上を指先で二度叩き、彼は視線を無理やり逸らした。

 その日の夕方、彼は一人残って残業していた。


 書類を机いっぱいに広げ、ひとつずつ目を通していく。

 中に、御影の供述記録があった。


 篠原は、それをめくっていくうちに、ある一行に目を止める。


 ――「誰かが自分の手法を模倣し、罪をなすりつけようとしている」


 その言葉が、胸の奥に刺さった。


 認めたくはなかった。

 だが、ここ数日のやり取りの中で――


 御影の言葉は、決して全部が嘘ではないと、彼は感じ始めていた。


 記録を脇に置き、椅子にもたれて息を吐く。

 机の片隅には、若き日の自分と、恩師との写真が飾られていた。

 恩師はかつて、こう言った。


「鑑定士の眼は、芸術の門番だ。」


 その言葉に背中を押され、彼はこの道を選んだ。

 だが、真実を守ることの代償が、これほど重いとは思わなかった。


 佐伯事件の後、彼はあらゆる私的依頼を断り、孤独を選んだ。

 自分の判断が、二度と揺らがぬように。


 だが――


 そのが、何を守り、何を失わせたのか。

 今の彼には、もうわかっていた。

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