第5話 見えない輪郭

 三軒目の店は、細い路地の奥にひっそりと佇んでいた。


 シャッターは閉ざされていたが、簡易的に置かれた受付の奥に、店番らしき男がスマホをいじって座っていた。


 調査令状を見せると、彼はすぐさま鉄扉を開け、ぶっきらぼうに呟いた。

「帳簿は……勝手に見て。店主はいないから。」


 店内は驚くほど静まり返っていた。

 空気にはテレピンの匂いと埃だけが漂っている。


 篠原は無言で帳簿を開き、ページをめくっていく。

 だが、肝心のページの一部が、突如として破り取られていた。

 紙の断面が白々しく、まだ新しい。


 眉間に皺が寄る。


「証拠写真を撮って、帳簿ごと持ち帰る。」

 篠原は低く告げ、警官が頷く。


 だがその間に、御影は部屋の隅に積まれた棚の前で立ち止まり、指先で一枚の額縁をコンコンと叩いた。

「雑だね。……こんなもの、よく出しっぱなしにしておくな。」


 店員がビクリと肩を震わせる。

「な、なんのこと……?」


 御影は何も言わず、額縁を引き抜き、蛍光灯の下に立てかけた。


 そこには、未完成の油絵が描かれていた。

 構図も配色も、《双子の夢》に酷似している――だが、明らかに途中で止まっている。


「……面白い。」

 御影はその語尾を長く伸ばしながら、ゆっくりと篠原に振り返る。

「――『探してるモノ 』、もしかしたら奥にあるかもね。」


 篠原は一瞬で表情を引き締めた。


「裏口は?」

 問いが鋭く飛ぶ。


 店員の顔色がみるみるうちに青ざめ、唇が震える。

「し、知らない!夜中に誰かが描きに来てただけで……俺、何も知らないんです!」


「……案内しろ。」

 篠原の声は静かだったが、冷たく鋭く、空気を切った。




 裏口を開けると、狭い裏路地に、テレピン油と乾いた塗料の匂いが立ちこめていた。


 小さな作業机の上には、使いかけの筆と絵の具。

 壁際には、最近取り外されたばかりのキャンバスが立てかけられていた。

 スケッチと粗い下塗りだけが残されている。


 篠原が膝をついてキャンバスのフレームを検めていると――


 肩に微かな重みが落ちた。

 御影がすぐ隣にしゃがみ込み、身体を寄せてくる。

 指先が、釘穴の縁をなぞっている。


「……見える?ここ、打ち直されてる。」


 声は耳元すぐそば。

 囁くように低く、空気を震わせる。


「……近すぎる。」

 篠原は目を逸らさずに答える。


 御影は低く笑った。

「近づかなきゃ、こんな細かいところ、見えないでしょ?」


 呼吸の音と、紙屑の匂いだけが二人の間に残る。

 時間が、異様に引き延ばされたように感じられた。


 篠原はゆっくりと身体を起こし、横目で御影を一瞥したが、何も言わなかった。

 沈黙を破ったのは、震える声だった。


「か、監視カメラ……レジのHDDに残ってます。すぐ出します!」




 映像が再生される。


 画面には、帽子を深くかぶった人物が机に向かい、ゆっくりと補色を加えていた。

 動作はぎこちなく、時おり手の甲で絵の具を拭う仕草すら見える。


 御影は黙ってその映像を見つめ、やがて小さく鼻で笑った。


「……三流だな。

 光の入りも構図もめちゃくちゃ。初心者の教材にでもすれば?」


 そして視線をずらし、篠原を見た。

 その目は薄く笑いながら、静かに言葉を投げる。


「でもさ。

 ――あんたも昔、本物を『偽物だ 』って言い切ったこと、あったよね。」


 指の関節が白くなる。


 篠原の手が震えた。

 握った帳簿が、ぎゅっと音を立てた。


 御影の言葉は、深く刺さる。

 他人に語ったことのない記憶。

 消えない傷跡。


 彼は一度、息を整える。

 帳簿を閉じる音は、いつもよりずっと重く響いた。


 ゆっくりと顔を上げ、御影を見据える。


「……俺の判断は、遊びじゃない。」

 その言葉は氷のように冷たかった。


 御影は肩をすくめ、笑みを崩さない。

「そう思いたければ、どうぞ。

 でもさ、結果は知ってるよね?」


 篠原は答えず、警官に目配せし、映像とHDDの確保を指示した。


 彼は店を出て、夜風に顔を晒す。

 それでも胸の奥の重苦しさは、簡単には抜けなかった。


 歩く速度が、いつもより早い。

 後ろから、御影の声が追いかける。


「……怒った?痛いとこ突かれたって顔してたよ。」


 篠原は足を止め、振り返って御影を睨む。

「本気で事件を解明したいなら、口を慎め。」


 御影は一拍置き、にやりと笑う。

「でもさ、その顔……俺が贋作描いてる時よりずっと面白い。」


 篠原は深く息を吸い、無言のまま背を向け、再び歩き出した。




 文化財対策課の臨時指揮室。


 篠原は帳簿と監視映像を課長に渡し、淡々と現場の状況を報告した。


 御影は部屋の隅の椅子にしゃがみ込み、片肘を膝に乗せて頬杖をつきながら、もう片手で机の上の炭筆を手に取っていた。


 気がつくと――

 警官のメモ帳の空白の片隅に、何かを素早く描き込んでいた。


 篠原が振り向いたとき、そこには――

 自分の横顔が幾つも、精緻に描かれていた。


 眉間に皺を寄せ、口を固く閉ざし、資料に目を落とし、あるいは裏路地で釘穴を見つめる姿まで。


 全てが、紙の中で呼吸していた。


「……なんだ、これは。」


 篠原が手を伸ばすと、御影は肩をすくめて笑った。


「模写より難しいんだよ、あんたの顔って。」


 篠原は紙をじっと見つめた。


 美しい筆致。

 冷徹で、残酷なまでに感情を切り取った線。


「お前……本気出せば、画家になれるだろう。」

 声は、思ったよりも低く、抑えられていた。


 御影は炭筆をくるくると回しながら、目を伏せて笑った。


「自分の絵なんて、描いてもつまんない。」

 紙を指先でトントンと叩く。


「模写は楽しいよ。描く前に『相手』を理解して……それから、自分を消す。」

 少しだけ、笑みの形が変わった。


「――誰も、傷つかなくなる。」

 その声には、微かに痛みが滲んでいた。


「……それに今の時代、本物なんて、誰も求めてないでしょ?」

 その言葉に、篠原の表情がわずかに揺れた。


 彼は机の端を指先で二度叩き、低く静かに答える。

「……それでも、俺がいる理由はそこにある。」

「世界中が『本物なんてどうでもいい』と言っても、俺は違う。」


 御影は目を細め、ゆっくりと笑った。

「だから、俺を捕まえたのか。」


「……『本物と見分けがつかない』って理由で。」

 篠原の眼差しが鋭くなる。

「お前の贋作がどこかに出回る限り、俺は追う。」


 御影は炭筆を指で転がしながら、唇の端を上げた。


「それは俺が罪人だからじゃなくて――

 あんたが『 負けたくない』から、でしょ?」


 そのとき、炭筆の回転が止まった。

 彼はふと顔を上げ、ぽつりと呟く。


「もしさ。……俺が、初めてを描いたら――

 あんた、見抜ける?」


 その問いに、篠原の手がわずかに止まる。


 紙が指の中でくしゃりと音を立てた。

 だが、彼は何も言わずにその紙を机に戻し、静かに背を向けた。

 そして、無言のまま部屋を後にした。

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