第4話 名前のない青

 夜が更け、篠原はようやく自宅へ戻った。


 スタンドライトが机の上だけを照らし、散らばった資料と写真が、夜の沈黙に埋もれていた。

 彼は一枚一枚めくりながら、ある報告書で指を止める。


 顔料層の赤外線断面図。速乾剤の成分分析。

 ――それは、十年前に自分が関わった、あの鑑定の記憶と重なっていた。


 視線は自然と、デスクの隅のコルクボードへ向かう。

 そこには、色褪せた新聞の切り抜きが、ピンで留められていた。角はすでにめくれ始めている。


【2015/08/02・アートニュース】

佐伯さえき 嶺舟れいしゅう、贋作疑惑で国際美術館が作品を撤去」

「コレクション市場価格が40%急落、美術界に激震」


 その隣には、《青のたそがれ》の鑑定書のコピーが並び、そこには若い篠原の直筆署名があった。


 彼はそれを手に取り、指先で署名の部分を撫でる。

 息が、少しだけ重くなる。


 ――それは、自分が初めて鑑定委員として署名した結論だった。

 そして、佐伯 嶺舟という画家を、事実上画壇から葬った事件でもある。


 あの年の展示会の情景が、ふいに脳裏をよぎる。


 冷たい照明の中、人々が息を潜めて彼の言葉を待っていた。


「この絵に使われているのは、合成ウルトラマリンです。

 この顔料は平成以降に輸入されたもので、佐伯の初期作品には使用されていないはずです。」

 その声は、若く、鋭く、まるで判決文を読み上げるかのようだった。


 会場にざわめきが広がり、佐伯は杖を握りしめ、言葉もなくその場を去った。


 結果、市場は混乱し、評価は暴落し――

 彼は筆を置き、そのまま表舞台から姿を消した。


 そして――

 あの日、資料を片付けていた篠原の視線とぶつかった、ひとつの影。


 十三、四歳。黒髪に半分隠れた顔。

 冷たい目が、怒りと混乱を宿したまま、彼を睨んでいた。


 あのときの少年が、今や御影 迅という名の贋作師になっていた。


 彼は新聞を元に戻し、指先が一瞬、木のフレームに触れる。


『合成ウルトラマリン』――

 あの時、自信満々に言い切った。

 だが、報告書には未検証の数値がひとつだけ残っていた。


 数年後、専門家にその部分を指摘されたとき、

 篠原は空の会議室で初めて、自分の「目」を疑った。


 だが、その時点で、すでにすべては終わっていた。


 ……もし、今回のすり替え事件が、御影によるだとしたら?


 あの一件の記憶を意図的に掘り起こし、自分に再び向き合わせようとしているのだとしたら?

 ――全世界の前で、自分をさせるために。


 胸の奥に、重い石が落ちたような感覚。

 息がうまくできない。


 彼は窓際に立ち、雨に濡れた街灯を見つめた。


 背筋はまっすぐ、しかし張り詰めている。

 これは、ただの贋作事件ではない。


 ――これは、自分自身が裁かれるための舞台かもしれない。




 翌朝、雨は上がり、空は洗われたように澄んでいた。

 警察車両が別の通りに停まり、篠原は昨夜よりも冷えた表情で乗り込む。


 御影は乗った瞬間、それに気づいた。

「……その顔。まさか、昨夜、何か思い出した?」


 篠原は何も答えず、書類を閉じる。

「今日は、残りの二軒を回る。」


「へぇ。」

 御影はにやりと笑い、挑発的な目を向けた。

「相変わらず、まじめだね。」




 二軒目の店は前回よりもずっと整っていた。

 棚はきちんと並び、床はぴかぴかに磨かれている。


 店主は彼らを見ると一瞬だけ目を見張ったが、すぐに帳簿を出してカウンターに置いた。


 篠原は静かにページをめくり、数か所で指を止めたのち、首を振った。

「日付が合わない。ここは除外。」


 警官が記録用に写真を撮り、持ち帰る準備をする。


 御影はカウンターに体を預け、ポケットに手を突っ込んだまま、篠原の動きを眺めていた。

「こんな細かいとこまでひっくり返して……画壇に嫌われるぞ?」


 軽口のような口調。

 しかし、その目はどこか探っていた。


 篠原は顔を上げずに答える。

「真作が見つかるなら、罵声くらい慣れてる。」


「へぇ。」

 御影は少し目を細め、そのまま彼を見つめた。

「――本気でだけを信じてるんだな。」


 そのまま、ふいに身を屈める。

 視線が、篠原の帳簿を握る手に重なる。


「でも、考えたことある?

 ……あんたが必死で守ってるが、誰にも求められてないとしたら?」


 その言葉に、篠原の指先がわずかに強張る。

 紙が、折れかけた。


「芸術の価値は、気まぐれな興味じゃ決まらない。」

 いつもより低く、冷たい声。

 まるで刃を突きつけるかのように。


 御影は眉を上げ、まったく怯まずに言い返す。


「違うよ、篠原先生。

 あんたが怖いのは……贋作じゃなくて、自分の『目』なんじゃない?」


 その声は、低く、静かで――まるで耳元で囁くような近さ。


「展覧会で、真作を『偽物だ』って言い切ってしまう自分。

 それが一番、怖いんでしょ?」


 篠原が、勢いよく顔を上げる。

 目が合った。


 御影のその目は、あまりにも近く――

 その笑みは、まるで彼の心の底を覗き込もうとしていた。


 ……やはり、あの件を意識している。


 もう乗り越えたはずなのに。

 そう思っていたはずなのに。


を口にされるたび、胸の奥が軋む。

 篠原は深く息を吸い込み、冷静を装ってひとこと。


「――次の店だ。」


 彼は踵を返し、外へ出る。

 御影は一歩遅れてついていく。


 その口元には、消えかけた笑みがまだ、残っていた。

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