第10話 封印の画室
篠原は自室に戻り、まだ湿ったタオルをかけながら、静かな夜に身を委ねた。
時計の秒針の音だけが室内に響く。
彼は机の引き出しを開け、黄ばみ始めた古い資料の束を取り出す。
古びた新聞の見出しが目に入る。
【2015年・アートニュース】
「佐伯嶺舟、筆を置く。画室は閉鎖、弟子たちは四散。」
その横にはいくつかのゴシップ紙の記事。
かつて佐伯のアトリエが、貧しい少年たちを受け入れ、
寝食を共にしながら、絵具を練り、画材の整理を手伝わせていたこと。
画室が閉鎖された後、彼らは行き場を失い、佐伯の名で生きていく道も閉ざされた——。
篠原はその一文に指先を止め、胸の奥に冷たい重みを感じた。
——その中の一人が、御影なのだろう。
ふと思い出す、昨晩、廊下で見せた御影の笑み。
その笑顔は薄い霧に覆われたようで、本音か皮肉か、判別がつかない。
もし、あのとき自分が鑑定委員としてあの結論にサインしなければ——
佐伯はあんな形で退場することはなかったかもしれない。
御影も、街角で速描きをし、贋作で糊口を凌ぐ人生にはならなかった。
ゆっくりと息を吐きながら、篠原はその記事の上に手を置いた。
これはただの調査じゃない。
これは、自分自身に下された判決と再び向き合う過程だ。
朝の光がブラインドの隙間から差し込み、ダイニングテーブルの上に落ちる。
御影はすでに椅子に座り、メモ用紙に炭筆で何かを走らせていた。
篠原が部屋から出てきた瞬間、足を止める。
描かれていたのは未完成のスケッチ——
テーブル、椅子、空のコップ、そして人影ひとつ。
線は静かで、洗練されていた。
御影は視線に気づき、顔を上げて微笑む。
「おはよう。」
手元のペンを止めず、人影の肩のラインを数秒で引き終える。
顔の部分は、わざと白紙のまま残されていた。
篠原は視線を逸らし、水を注ぎながら聞いた。
「もう起きてたのか。」
「うん、あんまり寝ないからね。」
御影は紙を軽く丸めて机に放った。
「ちょっと手慣らし。……って、なんだか君、昨日より葬式に行く人みたいな顔してるね。」
篠原は握ったコップを強く持ち直すが、言い返すことなく静かに答えた。
「……この事件、俺たちが思ってるより、ずっと複雑かもしれない。」
御影は片肘をつき、興味深そうに顔を傾ける。
「へぇ。昨晩、いい夢でも見たの? それとも悪夢か。」
「……もう、二度と間違いたくない。」
篠原の声は低く、しかし確かだった。
御影は少しだけ目を細め、そしてふっと笑った。
「そっか。そりゃ大変だ、鑑定士先生。だって、君の判断次第で、俺の未来も決まるからね。」
そう言って、彼はスケッチをくしゃっと丸め、ごみ箱に放り込んだ。
その仕草は軽やかだが、どこか挑発的だった。
篠原はコップを置くと、黙って自室に戻って着替えを始めた。
御影はその背中を見送りながら、なにかを見透かしたような笑みを浮かべていた。
ふたりが外に出た頃には、雲の隙間から日差しが落ち、
雨上がりの街に心地よい涼しさが広がっていた。
ポケットに手を突っ込んだまま、御影がふと口を開く。
「美術館、寄って行こうか。」
「今?」篠原は眉をひそめる。
「うん。人が少ないほうが、展示室の『空気』を感じやすいしね。」
御影は口元に意味ありげな笑みを浮かべた。
「……それに、あの空いた展示スペースをもう一度見ておきたい。」
国際美術館は静まり返っていた。
篠原が保安員に頼んで、封鎖テープの内側へとふたりで足を踏み入れる。
展示室の中央には、いまも強いライトが当たっていた。
本来ならそこに《双生の夢》が掛かっていた。
だが今、そこには空白の壁、そして微かな額縁の跡だけが残っている。
御影は立ち止まり、天井を仰ぐようにその壁を見上げる。
まるで、その空間を目に焼き付けるように、じっと見ていた。
やがて、篠原が小さく口を開く。
「……別の道もあったはずだ。なぜ贋作なんて描いた。」
御影はくすっと笑い、肩をすくめる。
「生きるってのは、食ってくってことでしょ。」
皮肉を含んだ口調で続ける。
「当時は貧乏で、絵具すら買えなかった。
修復や模写で小銭を稼いでたら、ある日こう言われたんだ。
『○○の筆致で一枚描けないか?』ってさ。」
彼は顎で壁にかかった抽象画を指す。
「こういう系統だよ。筆触を研究して、古いキャンバスに描いて、
ひび割れ加工して……ほら、『芸術』なんてどうでもよくて、
彼らが欲しいのは『高値で売れるモノ』。」
御影は肩をすくめた。
「それで数千万円で落札されて、俺の取り分は数万だけ。
……よく出来た『餌付けされた犬』ってとこだな。」
その言葉に、篠原は無意識に拳を握る。
胸にじんわりと重いものが降り積もる。
御影は彼の表情をしばらく観察し、ふいに笑みを浮かべて言った。
「でも、君には感謝してるよ。」
「……なんだと?」
「君が、あの鑑定で偽物って断じたからこそ——
佐伯の画室は潰れ、俺はこうなった。」
その目には冗談とも憎悪ともつかぬ色が潜む。
「今こうして一緒に調査してるって……面白い皮肉だよな。」
その一言が、篠原の胸に深く突き刺さる。
息を詰め、拳をポケットの中でさらに握りしめたが、
彼は何も言わず、ただ御影の言葉を飲み込んだ。
展示室に、空調の低い音だけが残る。
御影は篠原の横顔にふと笑いを浮かべ、展示室を出ていった。
「他の部屋も、ちょっと見てくる。」
篠原はその背を追うが、足取りはさっきよりも重たくなっていた。
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