回想:母の夜
——あの夜のことは、今でも夢に見る。
まだ少女だった私は、兄と並んで旧本家の門をくぐった。
その日は特別な夜だと、大人たちが口々に言っていた。
縁側には白布が敷かれ、中央には薪が山のように積まれていた。
その薪は山から切り出したばかりのはずなのに、不思議と湿っておらず、触れると温かかった。
「これが“黄泉の薪”よ」
そう囁いたのは祖母だった。
祖母の手は冷たく、しわの間に煤が入り込んでいた。
夜半、儀式が始まった。
兄は白装束をまとい、井戸の前に立たされた。
周囲には火を持った男たちが並び、古い言葉を低く唱えている。
井戸の口は蓋が外され、闇の奥から湿った息のような風が吹き上がってきた。
——その時だった。
井戸の底から、薪のはぜる音が響いた。
パチ……パチ……
そして闇の中に、白い腕がゆっくりと伸びてきた。
兄はその腕を見つめたまま、まるで魅入られたように動けなかった。
「行け」
背後から父の低い声が響き、兄は一歩、井戸に近づいた。
私の胸が締め付けられるように痛み、思わず叫ぼうとしたが、祖母の手が肩を押さえつけた。
その瞬間、兄の姿は井戸の闇に呑まれ、薪の音だけが残った。
翌朝、井戸は板で封鎖され、兄の名前は家の記録から消された。
家族は何事もなかったかのように振る舞ったが、私は知っている。
夜ごと井戸から聞こえる薪の音は、あの夜と同じだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます