第二幕・第四章:井戸口
裏庭の古井戸は、月明かりの下で静かに口を開けていた。
半分外れた蓋の隙間から、湿った冷気と焦げた木の匂いが漏れ出している。
静馬はその前に立った瞬間、強烈な既視感に襲われた。
——あの夜のことは、今でも夢に見る。
母の声が、遠い記憶の底から滲み出すように響いてくる。
少女だった母が旧本家の門をくぐり、兄と並んで歩いていた情景が、静馬の目の裏に浮かび上がった。
縁側には白布が敷かれ、中央には薪が山のように積まれていた。
触れると温かく、かすかに煙の匂いがした。
祖母の冷たい手がその薪を指し、「これが黄泉の薪よ」と囁く。
夜半、白装束をまとった兄が井戸の前に立たされ、周囲の男たちが火を掲げて低く唱え始めた。
井戸の闇の奥から、パチ……パチ……と薪のはぜる音が響く。
その闇から白い腕がゆっくりと伸び、兄を招くように動いた。
父の「行け」という声と共に、兄は一歩、二歩と井戸に近づき——
次の瞬間、闇に呑まれ、姿を消した。
残ったのは薪の音だけだった。
翌朝、井戸は板で塞がれ、兄の名は家から消された。
母はその音を、今でも耳にしていると言った。
現実に引き戻された静馬は、井戸の前で立ち尽くした。
胸の奥に、冷たい重石のような感覚が広がっていく。
——母と同じ景色を、自分も今、目にしている。
視界の端で夏芽が不安げに唇を噛み、晴人は懐中電灯を握りしめたまま視線を逸らしている。
狩野だけが井戸の口をじっと見つめ、何かを確かめるように眉を寄せていた。
静馬は深く息を吸った。
肺に入る空気は冷たく湿り、息を吐くたびに胸の奥で薪のはぜる音が反響する。
それは井戸の底から響く音と区別がつかないほど、鮮明だった。
心の奥底で、ふたつの声がぶつかり合う。
——行くな。戻れなくなる。
——行け。全てを終わらせるのはお前しかいない。
母の涙を見た日の記憶が、刃のように胸を切り裂く。
同時に、失踪した妹の笑顔が鮮やかに蘇った。
彼女の声が聞こえる気がした——助けて、と。
静馬は短刀の柄を強く握り締め、目を閉じた。
恐怖は消えない。だが、それ以上に、背中を押す衝動があった。
風が一瞬止み、虫の声が消えた。
代わりに——パチ……パチ……と薪の音が近づいてくる。
それは外からではなく、井戸の底から響いていた。
「……行く」
自分でも驚くほど低く、硬い声が喉から漏れた。
井戸の蓋が持ち上がる音は——なぜか、水滴が落ちるよりもゆっくりだった。
その隙間から、闇が液体のように溢れ出す。
濃い墨汁のようなそれは地面に落ちても形を保ち、じわりと足元へ広がってきた。
静馬の耳に、薪のはぜる音が重く、鈍く響く。
パ……チ……パ……チ……
その間隔は徐々に伸び、やがて音と音の間に奇妙な沈黙が挟まった。
世界全体が呼吸を止めたようだった。
夏芽が懐中電灯を落とした。
光は地面を転がり、井戸の縁で止まったまま、ぼんやりと白い腕を照らす。
腕の皮膚は人間のそれではなく、乾いた薪の表面に似ていた。
木目のような筋が走り、その隙間からかすかに火が灯っている。
その腕が——静馬の足首に触れた。
冷たくも熱くもない、不気味な“温もり”だった。
その感触が皮膚から骨へ、そして脳へとゆっくり染み込んでくる。
狩野の叫びが音ではなく振動として伝わる。
口が動いているのに声が聞こえない。
空気が固まってしまったかのようだ。
次の瞬間、闇が足元から巻き上がり、視界が反転した。
重力が崩れ、地面が遠ざかっていく。
見上げた空は、ゆっくりと赤く染まり、雲が燃えるように形を変えていった。
——ああ、落ちていく。
風はない。
代わりに、頭の中に声が流れ込んできた。
> 「代わりを……代わりを……」
闇の中で伸びる白い腕が幾重にも絡みつき、静馬の体を深く引き込んでいく。
視界が完全に闇に閉ざされた瞬間——薪の音が一際大きく弾けた。
パチィィ……ッ!
光が弾け、世界が反転した。
そこはもう、井戸の底ではなかった。
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