第二幕・第三章:旧本家の門

翌日、空は朝から重い雲に覆われていた。

 湿った風が田んぼの上を渡り、稲穂が鈍く揺れる。

 静馬は夏芽、狩野、そして葉山晴人を呼び集め、机の上に広げた写本の地図を見せた。


 「ここが旧本家の敷地だ」

 静馬の指先が、赤い印のひとつを示す。

 「母の話では、この井戸に“薪”が沈められている可能性が高い」

 夏芽は黙って頷き、地図の端に書かれた古事記の注釈を指でなぞった。

 > “黄泉の門、開くべからず”

 その筆跡は、ほかの文字よりも濃く、力強かった。


 葉山晴人は身を乗り出し、声を落とす。

 「昨夜、井戸の方へ向かう薪を背負った人影を見ました……足が、なかったんです」

 その言葉に場が静まり返る。狩野は顔をしかめ、夏芽は唇を固く結んだ。


 夕方、調査のための準備が始まった。

 狩野は町の防犯灯の配置図を用意し、夜間でも最低限の光源を確保する計画を立てる。

 夏芽は古い記録から、井戸周辺に近づくと「虫の声が止み、薪のはぜる音が聞こえる」という記述を見つけた。

 晴人は祖父の家から懐中電灯と古びたお札を持参し、胸ポケットにしまい込んだ。


 日が暮れると、町全体が妙に静まり返った。

 夏のはずなのに、風が冷たく、竹林の奥から湿った匂いが漂ってくる。

 旧本家への道は雑草に覆われ、踏み込むたびに草が湿った音を立てた。


 やがて、木製の大きな門が姿を現す。

 屋根は崩れ、左右の柱は苔に覆われている。

 門の向こうには広い庭が広がっていたが、雑草は膝まで伸び、母屋は闇に沈んでいた。

 その奥、屋敷裏のさらに向こうに——古井戸の影がぼんやりと浮かんでいる。


 夏芽が耳を澄ませた。

 虫の声が……消えている。

 代わりに、どこからかパチ……パチ……と薪のはぜる音が近づいてきた。


 静馬は短刀の柄に手をかけた。

 「……行くぞ」

 門をくぐった瞬間、庭の奥の闇が、こちらを見て笑ったように見えた。


 門をくぐると、音が鈍くなり、呼吸音と心臓の鼓動だけが耳に響く。

 庭の地面は苔に覆われ、靴底が湿り気を吸い上げる。

 懐中電灯の光がかつての玄関を照らし出した。


 木製の扉は半分外れ、残った片方は斜めに歪み、黒い染みが広がっている。

 近づくとそれは火事の跡ではなく、墨のように染み込んだ何かだった。


 足を踏み入れると、室内は冷たい闇に沈んでいた。

 畳は所々沈み、壁際の古い箪笥からは乾いた紙とカビの匂いが漂う。

 夏芽が引き出しを開けると、古びた家族写真が数枚出てきた。

 その中央には若い頃の静馬の母が写っている。

 隣の男の顔は、墨で塗り潰されていた。


 廊下の床板の隙間から冷気が吹き上がる。

 奥の座敷には黄ばんだ屏風が半ば倒れ、その前に炉の跡があった。

 炉の中には薪の残骸があり、先端だけが異様に白く輝いて見える。

 狩野が指先で触れようとした瞬間——パチ……と小さな音が響き、灰が舞い上がった。

 その灰は風もないのにふわりと浮かび、狩野の頬をかすめて消えた。


 奥の障子の向こうから、畳を踏む柔らかな音と、何かを引きずる音が聞こえてきた。

 障子を開け放つと、そこには誰もいない。

 だが畳には濡れた足跡が残り、それは薪の端を濡らしたような形をしていた。


 奥座敷の縁側からは、裏庭の古井戸が見える。

 封鎖されているはずの蓋は半分外れ、そこから冷気と焦げた木の匂いが立ちのぼっていた。

 「……行くしかないな」静馬が呟く。

 その瞬間、背後の座敷から薪のはぜる音が、まるでこちらを追うように近づいてきた。


 四人は顔を見合わせ、無言で井戸へと歩き出す。

 背中に突き刺さる視線と、湿った足音が、暗闇の中で確かに彼らを追っていた。

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