第九章:炎の中の選択

 八幡様の巨大な顔が目前に迫る。

 額の割れ目に揺らめく青白い火の中では、澪が小さく縮こまり、必死に手を伸ばしていた。

 その周囲には無数の腕や脚が絡みつき、まるで逃がさぬように守っている。


 「当主の血を寄越せば、妹は返そう」

 その声は低く、しかし甘く耳を包み、静馬の心の奥へと染み込んでいく。

 同時に、頭の中で映像が次々と再生された——妹を助けられなかった兄としての自分、母を責めきれず逃げるように町を離れた自分。


 胸の奥で罪悪感が重くのしかかり、呼吸が浅くなる。

 周囲の炎の中からも顔が現れ、一斉に囁き始めた。

  「代わりを……代わりを……」

  「一人でいい……それで済む……」


 足元から灰色の手が何十本も伸び、足首を掴んで離さない。

 指は冷たく湿り、触れられるたびに体力が吸い取られるようだった。

 遠くでは夏芽が必死に叫んでいる。

 「迷ったら飲まれる! 八幡様は人の心を燃やして糧にしてる!」

 狩野刑事は灰色の腕に絡まれながら、銃を乱射して道を作ろうとしていた。


 だが視界は炎に歪み、現実と記憶の境界が崩れていく。

 ——庭で澪と追いかけっこをした日。

 ——夏祭りの夜、浴衣姿で金魚すくいに夢中になった澪の笑顔。

 ——八幡神社の石段を駆け上がり、肩で息をしながら笑い合ったあの瞬間。


 それらが一つずつ炎に包まれ、燃えて灰になる光景が頭の中に押し寄せる。

 炎は熱を持たず、ただ記憶だけを燃やして奪っていく。

 八幡様の精神侵食だと直感した。


 その時、炎の奥で澪が泣きながら手を伸ばした。

 「お兄ちゃん……怖いよ……」

 小さな声は震えていたが、確かに十年前と同じ響きだった。

 その手はすでに半透明になり、消えかけている。


 静馬は歯を食いしばった。

 澪だけを助ければ、自分が薪となり燃やされる。

 しかし自分が拒めば、町全体が炎に飲まれる。


  「八幡様……」

 短刀を握る手に力を込め、炎の目を見返した。

  「俺は……妹も町も捨てない」


 刃が眩い光を放った瞬間、足元の灰色の手が一斉に焼け落ちた。

 地面の炎が波打ち、八幡様の顔が歪む。

 「ならば、汝ごと燃やし尽くす!」


 咆哮と共に、周囲の炎の中から無数の白い腕が突き出て襲いかかる。

 一本一本が熱を帯び、空気越しに皮膚が焼ける感覚が伝わってきた。

 静馬は短刀で切り払いながら、炎の道を駆け抜ける。

 足元には顔を浮かべた灰が渦を巻き、足を絡め取ろうとする。


  「代わりを……代わりを……」

 耳に張り付く囁きを振り払い、ただ前へ進む。


 しかし、割れ目まであと数歩というところで、炎の壁が轟音と共に立ち上がった。

 熱気が肌を裂き、視界が真っ赤に染まる。

 炎の中から八幡様の巨大な腕が突き出て、静馬の胸倉を掴み上げた。


 「汝の血こそ、永遠の薪……!」


 握られた瞬間、腕から氷のような冷たさと灼熱の両方が同時に流れ込み、全身の力が奪われていく。

 短刀が手から滑り落ちかけ、視界の端で澪の姿が遠ざかる。


 「……やめろ……」

 声にならない声を絞り出すが、八幡様の腕の力は増すばかりだ。

 皮膚が焦げる匂いと、自分の鼓動がどんどん遠のいていく感覚。


 そのとき、遠くで夏芽の叫びが響いた。

 「静馬っ!!」


 振り向くと、夏芽が炎の中で必死に何かを投げた。

 光を帯びた……小さな護符だ。

 それが八幡様の腕に触れた瞬間、ジュウ、と肉の焼ける音がして煙が立ち上る。


 「……ぐぅぅぅぅぅ……!」

 八幡様がわずかに腕を緩める。

 その隙に静馬は短刀を握り直し、全力で八幡様の手首を斬りつけた。


 眩い光が爆ぜ、八幡様の腕が灰となって崩れ落ちる。

 だが、その直後、地面が裂け、炎の渦が静馬の足元を飲み込もうとした。

 中から現れたのは、今までの白い腕ではなく、炎そのものが形を成した巨大な蛇のような存在。

 熱風が吹き上がり、肌に刺すような痛みが走る。


 蛇は一直線に襲いかかり、その口の奥には八幡様の額の割れ目と同じ青白い光が揺れていた。

 ——飲み込まれれば終わりだ。


 静馬は後退しながら、短刀を地面に突き立てた。

 刃から広がった光が足元に円を描き、炎の蛇の動きを一瞬だけ止める。


 「今だ……!」

 その隙を突き、円の中から跳び出し、蛇の頭を横薙ぎに斬り裂いた。


 炎が悲鳴を上げるように炸裂し、八幡様の顔が苦悶に歪む。

 地面の炎が一瞬だけ弱まり、澪への道が開けた。


 額の割れ目が目前に迫る。

 炎の奥で澪が、最後の力で手を伸ばしていた。

 静馬は飛び込みざまにその手を掴み、全力で引き寄せた。

 肌に触れた瞬間、幼い日の温もりが蘇る。


 八幡様の絶叫が世界を震わせた。

  「当主の血……必ず、また——」


 光と炎が混ざり合い、全てが崩れ落ちるように暗転した——。

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