第八章:八幡様
闇の向こうから、ゆっくりと巨大な影がせり上がってきた。
それは形を持たない塊——無数の腕や足が絡み合い、溶けた金属のようにうねっている。
ところどころに人の顔が埋め込まれ、それぞれが苦悶や嘲笑を浮かべていた。
中央には異様に大きな顔——額には薪のような割れ目が走り、そこから青白い炎が噴き出している。
「……当主の血よ」
八幡様の声は、大地の底から響くように重く低い。
「十年前、汝は我が糧を逃した。その代わりに、妹を受け取った」
その声と共に、静馬の頭の奥に光景が流れ込んだ。
——澪と庭で遊んだ夏の日。
石ころを並べて作った“家ごっこ”で、澪は必ず母の役をやりたがった。
夜には縁側で一緒に花火を見た。
澪は怖がりで、線香花火が落ちるたびに「もう一本やって」とせがんだ。
さらに幼い記憶——町の夏祭りで、商店街の人たちが笑顔で飴をくれたこと。
顔なじみの大工の藤井が肩車をしてくれたこと。
八幡神社の石段を、澪と競争して駆け上がったこと。
——あの頃の町は、もっと明るく、もっと温かかった。
だが、いつからだろうか。
人々が八月になると目を伏せ、家に閉じこもるようになったのは。
子どもながらに、その空気を肌で感じていた。
澪が消えた年、その沈黙は一層濃くなった。
「返せ……澪を」
静馬は低く呟く。
八幡様は炎の中で嗤い、額の割れ目から澪の姿を浮かび上がらせた。
白い浴衣のまま、炎の光を浴びて微笑んでいる。
「返す……? それは炎を絶やせと言うこと」
八幡様の声は甘く、そして深く静馬の心に染み込んでくる。
炎の揺らぎが視界を覆い、現実と記憶の境界が曖昧になる。
——澪の笑顔、町の祭り、母の手の温もり。
それらが炎に包まれ、ゆっくりと燃えていく。
「選べ……当主の血を捧げるか、町を焼くか」
背後で夏芽が叫んだ。
「静馬! あれはあなたを揺さぶってるだけ! 澪はまだ完全に取り込まれてない!」
狩野刑事は灰色の手に足を掴まれながら、必死に銃を構えた。
「早く行け! お前しか妹を救えない!」
だが足は動かない。
八幡様の声が耳元で囁く。
「汝が来れば妹は解放される……代わりに汝を薪とする」
「血を捧げれば、町は守られる……」
心臓の鼓動が速くなり、呼吸が乱れる。
額に汗が滲み、短刀を握る手が震えた。
妹を救えば、自分は死ぬ——しかし拒めば、町は炎に飲まれる。
その時、澪が炎の奥で泣きながら手を伸ばした。
「お兄ちゃん……怖いよ……」
その声は確かに、十年前と同じ澪の声だった。
炎に包まれた姿がかすみ、やがて透け始める。
このままでは完全に八幡様の薪になってしまう。
静馬は歯を食いしばり、短刀を握り直した。
「……選ばせろ、八幡様」
八幡様の巨大な顔が静馬に近づき、炎の息が全身を包み込んだ——。
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