第一章:帰郷
八月十三日、盆の入り。
午後の電車を降りた荒川静馬は、じっとりとした熱気に顔をしかめた。都会の湿度とは違う——どこか土と水の匂いが混じった重さが、体にまとわりつく。
駅前のロータリーには、昔あった駄菓子屋も食堂も姿を消し、シャッター通りとなった商店街の奥に、竹林の稜線が薄く見えている。
タクシーの運転手は、静馬の行き先を聞くなり、わずかに眉をひそめた。
「……荒川本家、ですか」
その声色には、わずかな敬遠と、何かを知っている気配があった。だが静馬は、触れずに窓の外へ視線を戻した。
父・修蔵が亡くなったのは一月前。
病室での最後の言葉を母から伝え聞いた時、静馬は意味を理解できなかった。
「薪を燃やす夜は……外に出るな……」
子どもの頃にも同じことを言われた記憶があるが、それは半分迷信のように受け取っていた。
けれど今、その言葉の響きが妙に胸に残っている。
屋敷に着くと、そこは時間の止まったような空間だった。
築百二十年の木造二階建て、分厚い梁と黒光りする柱。土間には昔ながらの竈が残り、庭先の柿の木は枝を伸ばし放題にしている。
玄関の引き戸を開けると、線香の香りが強く漂ってきた。
仏間には遺影の父が微笑を浮かべ、親族が黒い喪服姿で並んでいる。だが、その視線は互いに交わらず、まるで同じ部屋にいても別々の世界にいるようだった。
母はやせ細った体で立ち上がり、かすかに笑った。
「静馬……よく来たね」
「……母さん、久しぶり」
従姉の夏芽が近づき、静馬の腕を軽く叩いた。
「何年ぶりかしら。東京はどう?」
「……相変わらず忙しいよ」
そんな他愛のないやり取りをしていると、夏芽の声色が少し低くなった。
「——今年は、薪の年なのよ」
「薪の……年?」
「忘れたの? 八幡の薪。あなたも小さい頃、見たでしょう?」
静馬は返事をしようとしたが、裏庭の竹林から「パチ、パチ」と薪のはぜる音が聞こえ、言葉が途切れた。
——いや、まだ誰も火を焚いているはずがない。
それどころか、音に混じって、湿った風が頬をなで、かすかにすすり泣くような声が流れてきた。
その夜、葬儀の後の直会も終わり、親族は散り散りに部屋へ引き上げた。
静馬は眠れず、縁側に腰を下ろした。庭の向こうには竹林が黒々とそびえている。
風鈴が鳴るたび、薪の音が少しずつ近づいてくる気がした。
暗がりの中、竹林の奥に一瞬、青白い火が揺らめいた。
静馬は息をのむ。
——見間違いか、それとも。
だが次の瞬間、背後から母の声が低く響いた。
「静馬、今夜は……絶対に外へ出てはだめよ」
その声音には、迷信ではない——もっと切実な恐怖が滲んでいた。
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