盂蘭盆の夜、薪は人を喰らうーー荒川家の人々ーー

影武者なのだ

序章:八幡の薪

 八幡町の夏は、空気そのものが溶けてしまったかのように重い。

 昭和四十八年、八月十五日——盂蘭盆の夜。

 田んぼの向こうにある竹林の奥から、ぱちぱちと薪のはぜる音が聞こえていた。


 荒川家の次男、荒川清二は、縁側からそっと立ち上がった。外では、村の子どもたちが線香花火をして遊んでいる。だが清二の視線は、その笑い声ではなく、竹林の奥に灯る不自然な炎へと向けられていた。


 ——八幡の薪は、神様のごちそうだ。


 それは祖母の八重が昔話のように語っていた言葉だった。

 「薪の夜には外へ出てはいけない、行けば連れていかれる」——そう聞かされても、十二歳の清二にとっては、むしろその禁忌が好奇心を煽った。


 炎は、まるで彼を呼んでいるかのように揺れていた。

 足音を忍ばせ、田んぼの畦道を抜けて竹林に入る。蝉の声が次第に遠ざかり、かわりに湿った土と腐葉土の匂いが鼻を突く。


 竹の間を抜けると、そこに小さな祠——「薪の社」があった。

 社の前には焚き火があり、その炎は青白く、まるでこの世の火ではないように見えた。

 そして、その炎の奥に、長い髪の女が立っていた。顔は影に隠れて見えない。


 「……おいで、清二」

 耳元で囁かれたように感じ、心臓が凍りつく。

 女の口元だけが、かすかに笑った気がした瞬間——視界が闇に沈む。


 翌朝、竹林には焚き火の跡も祠もなかった。

 清二は二度と戻らなかった。


 村人たちは口々に言った。

 「また八幡の薪が人を連れていったんだ」

 「今年は荒川の番だったか……」


 だが、それ以上のことを語る者はいなかった。

 ——薪の夜のことを口にすると、次は自分が連れていかれるからだ。

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