第14話 影の名

黒い靄のような身体を揺らしながら、影はゆっくりと蒼の周囲を巡った。

 その存在は重く、冷たく、まるで心臓を直接握られているようだった。


『我らは“喰い人”。人が忘れたいと願った記憶を糧に生きる存在』


 低い声が、直接脳へと響いてくる。


「……人が、忘れたい記憶?」


 蒼の問いに、影は愉快そうに笑った。


『そうだ。人は皆、苦しみや悲しみを棄てようとする。

 そのとき生じた隙間に、我らは生まれる。

 だからこそ、人間が人間である限り、我らは尽きぬ』


 その言葉に蒼は唇を噛んだ。

 自分自身も「妹を失った記憶」から目を背け続けてきた。

 その弱さこそ、影を招いたのではないか――そんな疑念が胸を刺す。


 影はさらに続ける。


『妹の声を聞いたのだろう? あれは我らが喰らった記憶の残滓。

 だが望むなら返してやろう。……ただし代償と引き換えに』


「代償……」


 影は蒼の耳元で囁いた。


『お前の記憶を差し出せ。そうすれば妹と再会できる』


 妹と再会――その甘美な響きに心が揺らぐ。

 けれど同時に、蒼は強い違和感を覚えた。


「……お前、本当に妹を返す気があるのか?」


 影の動きが一瞬止まる。

 その沈黙が、何よりの答えだった。


『疑うのか? ならば証を見せよう』


 そう言って影は、闇の中からひとりの少女の姿を呼び出した。

 ――妹。

 蒼の記憶そのままの笑顔で、そこに立っていた。

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