第9話 囁く声

その夜、蒼は奇妙な夢を見た。

 霧のように白く霞んだ廊下。どこまでも続く扉の列。そのひとつひとつから、かすかな声が漏れ出していた。


「……お兄ちゃん」


 蒼は足を止める。耳を澄ますと、確かに聞き覚えのある声がした。

 胸の奥にざわめきが走る。忘れたくても忘れられない声。――妹の声。


「助けて……」


 掠れた声は遠く、けれど必死に呼びかけているようだった。

 蒼は無意識に扉へと手を伸ばす。冷たい取っ手に触れた瞬間――


 ガンッ!


 誰かに弾かれるように扉が閉ざされた。

 振り返ると、そこに立っていたのは紗夜だった。


「……この扉は、まだ開けてはだめ」


 彼女の瞳は、いつになく真剣だった。

 蒼は言葉を失う。喉まで出かかった「妹」という二文字を飲み込む。


「どうして……俺の、妹の声が聞こえたんだ?」


 問いかけても、紗夜は小さく首を振るだけだった。


「蒼。あなたが聞いたものは――記憶に紛れ込んだ影。その先にあるものを見れば、戻れなくなるかもしれない」


 その言葉は冷たく、けれど優しさに包まれていた。

 夢はそこで断ち切れるように崩れ去り、蒼は汗に濡れたシーツの上で目を覚ました。


「妹……」


 呟いた声は震えていた。

 もう逃げられない。影と、妹の声が確かに繋がっている。

 蒼の胸に、不安と決意がないまぜになって燃え上がっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る