第2話

森を抜けた先に見えた村は、想像していたよりもずっと小さかった。

アルム村、という名前らしい。

村の入り口に立つ、古びた木の看板にそう書かれていた。


石造りの家が十数軒ほど並んでいて、村の中央には小さな教会が見える。

畑仕事をしていた村人たちが、私たちに気づいて訝しげな視線を向けた。

その目には、好奇心よりも警戒の色が濃く浮かんでいる。


それも無理はない。

継ぎ接ぎだらけで汚れた服を着た、四歳の子供と銀色の子犬。

どう見ても、普通の旅人には見えないだろう。


物乞いか、どこかから逃げてきた孤児だと思われているに違いない。

下手に話しかければ、厄介者として追い出されてしまう可能性すらある。


「とりあえず、情報を集めましょう」


私はフェンに小声で話しかけながら、村の中へと足を進めた。

フェンは私の考えを察したのか、静かに私の半歩後ろをついて歩く。


まずは商業都市ポルタまでの距離と、そこへ行くための方法を知りたい。

できれば、今日の寝床と食事も確保したいところだ。


持っているお金は、追放された時の銅貨二十三枚と木の実を売った五枚。

合わせて、たったの二十八枚しかない。

村の宿屋らしき建物の前を通り過ぎた時、料金表がちらりと見えた。

一泊食事付きで、銅貨三十枚。二枚足りない。


それに全財産を、宿代で使い果たしてしまうわけにはいかない。

何か、お金を稼ぐ手段を見つけなければ。


村を歩いていると、一軒のパン屋が目に入った。

しかし店先は人がおらず、活気がない。

店の前に置かれた看板には、「焼きたてパン」と書かれているが文字は色褪せている。


店の窓から中を覗くと、棚に並んだパンは数種類しか見えない。

どれも焼き色がまばらで、あまり美味しそうには思えなかった。

これでは、客が来ないのも当然だろう。


店主らしき恰幅のいいおじさんが一人、カウンターの向こうでため息をついている。

その姿を見た瞬間、私はこれだと思った。

今の私にできること、それは前世で身につけた経理と経営の知識を活かすことだ。


この寂れたパン屋を立て直せれば、報酬として宿と食事をもらえるかもしれない。

いや、それ以上の価値を生み出せる可能性がある。

これは、大きなチャンスだ。


私は一つ深呼吸をして、パン屋のドアをゆっくりと開けた。

カラン、と乾いたベルの音が店の中に響く。


「いらっしゃい、ってなんだ子供か。物乞いなら他を当たってくれ。うちも余裕がないんだ」


店主のおじさんは私とフェンを見ると、面倒くさそうに手を振った。

その目に宿っているのは、諦めと疲労の色だった。


「物乞いではありません、私はあなたのお店を助けに来ました」


私はできるだけ落ち着いた、大人びた声で言った。

四歳の子供の見た目では、まともに話を聞いてもらえないだろう。

声と態度で、信頼を勝ち取るしかないのだ。


「はあ、助けるだあ? 小嬢ちゃん、一体何を言ってるんだい」


店主は、呆れたように鼻で笑った。

無理もない、当然の反応だ。


「このままでは、このお店は一ヶ月以内に潰れてしまいます」


私は単刀直入に、事実だけを告げた。

同情や遠回しな表現は、ただの時間の無駄だ。

その言葉に、店主の顔色が変わった。

彼の痛いところを、正確に突いたのだろう。


「なっ、なんだとこのガキ! いきなり来て、なんてことを言うんだ!」


店主が、カウンターから身を乗り出して怒鳴った。

フェンが私を守るように、小さく唸り声を上げる。


「落ち着いてフェン、大丈夫だから」


私はフェンの頭を撫でて落ち着かせると、店主をまっすぐに見つめた。

ここで、少しも怯んではいけない。


「私は、あなたのお店の問題点が分かります。そして、それを解決する方法も知っています」


「問題点だと、俺のパンの味が悪いとでも言うのか!」


「味の問題ではありません、パンの香りはとても良いです。問題は、経営にあります」


私は、きっぱりと言い切った。


「経営……?」


店主は目を丸くして、私のことを見つめている。

四歳の子供の口から「経営」という言葉が出るとは、夢にも思わなかったのだろう。


「信じられないかもしれませんが、事実です。試しに、あなたのお店の帳簿を見せてくださいませんか。問題点を、具体的に指摘してみせます」


「帳簿……?」


「ええ、日々の売上や仕入れを記録したものです。それを見れば、どこに無駄があるのかが分かります」


私の言葉に、店主はしばらく黙り込んで考え込んでいた。

彼の顔には、疑いとほんのわずかな期待が入り混じっている。

店の経営が、危機的な状況であることは彼自身が一番よく分かっているはずだ。

藁にも、すがりたい気持ちがあったのかもしれない。


「……分かった、見てみるだけでいいんだな?」


やがて店主は諦めたようにため息をつき、一冊の古びたノートを取り出した。


「これがうちの帳簿だ、まあただの売上記録だがな」


私はノートを受け取り、カウンターの上に広げてみた。

中身は、私の予想通りだった。いや、予想以上にひどい状態だ。

日付と売れたパンの種類と数、仕入れ金額が殴り書きで記されているだけ。

これでは、正確な利益の計算などできるはずもない。


「……ひどいですね、これは」


思わず、本音が口から出てしまった。

前世で見てきた、たくさんの会社の書類とは天と地ほどの差がある。


「な、なんだと!」


「まず、原価計算が全くできていません。パン一個作るのに、材料費がいくらかかるか把握していますか」


「そ、そんなの、いちいち計算してられるか! 大体こんなもんだろうって感じでやってるんだ」


「その『大体』が問題なのです、だから売れているのに儲けが出ない。次に在庫管理ですが、毎日どれくらいのパンが売れ残っているか記録していますか」


「……してない、売れ残りは俺が食ったり家畜の餌にしてる」


「それは廃棄と同じです、つまり仕入れた材料を捨てているのと同じこと。売れ筋の商品と、そうでない商品もこれでは分かりませんよね。感覚だけで商売をしていては、潰れるのは当たり前です」


私は、次々と問題点を指摘した。

店主は最初、不満そうな顔をしていたが私の話を聞くうちに顔色を変えていく。

図星だったのだろう、その顔はどんどん青ざめていった。


「……小嬢ちゃん、あんた一体何者なんだ?」


店主の声は、少し震えていた。

その目には、もはや私を子供として見る色はなかった。


「私はリリア、ただの旅人です。それよりも、このお店を立て直す気はありますか」


「た、立て直すって、どうやって……」


「まずは、日次決算を導入します。毎日、その日の売上と経費をきっちり計算するんです」


私はノートの新しいページを開き、ペンを借りて簡単な表を書いてみせた。

売上、仕入、経費、そして最後に利益の欄を作る。


「こうやって毎日数字を記録すれば、何にお金を使っているのかが見えてきます。無駄が見えれば、それを削ることができるのです」


「なるほど……」


「次に、パン一個あたりの正確な原価を計算します。小麦粉、バター、砂糖、材料ごとに計算して、あなたの労働時間もお金に換算して加える。そうして初めて、パンの正しい値段が決まるんです」


「時給か、自分の給料なんて考えたこともなかった」


「考えなければダメです、あなたは経営者なのですから。趣味でパンを焼いているわけではないでしょう」


私の言葉に、店主はぐうの音も出ないようだった。

私は、さらに話を続けた。


「そして一番大事なのは、新しい商品を開発することです。この村に子供はいますか、子供向けの甘くて小さなパンを作ればきっと喜ばれます。あるいは旅人向けに、日持ちのする硬いパンとか」


「新しい、商品……」


「そうです、品揃えを増やしてお客さんの層を広げるんです。お店の前だって、もっと工夫ができます。今日のオススメ商品を黒板に書いたり、試食を置いてみたり」


次から次へと溢れ出す改善案に、店主は目を白黒させている。

前世で、多くの会社の再生を手伝ってきた経験が今ここで生きている。


「……すごい、小嬢ちゃん、あんた本当にただの子供なのか……?」


「見ての通り、ただの子供ですよ。それでどうしますか、私の提案に乗ってみますか」


私は、店主の目をじっと見つめて言った。


「報酬は、今日の宿と食事で結構です。それからお店の売上が改善したら、成功報酬としていくらかのお金と旅の間の食料をください」


これは、私にとって大きな賭けだった。

もしこの提案を断られれば、今夜は野宿しかない。

しかし店主の目には、先ほどの絶望の色はもうなかった。

そこには、希望の光が灯っているように見えた。


「……分かった、あんたの言う通りにやってみよう。俺はクラウスだ、よろしく頼む、リリア先生」


クラウスさんは、私に向かって深々と頭を下げた。

こうして、私の初めての経営コンサルティングが始まったのだ。


まずはクラウスさんに、店の全ての在庫を書き出してもらうことから始めた。

厨房の棚の奥からは、賞味期限の切れたジャムや古くなったスパイスが出てくる。


「これは全部廃棄です、もったいないのではありません。もったいないことをしてきた結果が、これなのです」


私は心を鬼にして、古い食材を処分させた。

次に、店の隅々まで徹底的に掃除をさせた。

お客さんが食事を買う場所だから、清潔感が第一なのだ。


フェンはそんな私たちの様子を、厨房の隅で丸くなって大人しく見ていた。

時々クラウスさんが、こっそりパンの切れ端を与えているのを私は見逃さなかったが。


その日の夜、私はパン屋の二階にある小さな屋根裏部屋を借りられた。

硬いベッドと、古びた毛布しかなかった。

でも屋根がある場所で眠れるだけで、本当にありがたかった。


夕食には、クラウスさんが焼いてくれた温かいパンと野菜スープをご馳走になった。

焼きたてのパンは、外側はカリッとしていて中は驚くほどふわふわだ。


「美味しい……」


思わず、声が漏れてしまう。

こんなに美味しいパンを焼けるのに、なぜ客が来なかったのだろう。

本当に、経営だけの問題だったのだ。


「そうか、いつもと同じように焼いただけなんだが……」


クラウスさんは、照れくさそうに頭を掻いた。


「クラウスさんのパンは、とても美味しいです。だから、この店は絶対に繁盛します。私が保証します」


「……ああ、ありがとうな、リリア」


クラウスさんの目に、少しだけ涙が滲んでいるように見えた。


翌日から、本格的な店の改革が始まった。

私はまず、クラウスさんに正確な原価計算の方法を徹底的に教え込んだ。

最初は簡単な計算にも手間取っていたクラウスさんだったが、私が根気強く教える。

すると、少しずつ理解してくれるようになった。


「なるほど、このパンの原価は銅貨三枚で売値が五枚。だから一個売れると、二枚の儲けになるのか!」


「そうです、その利益を積み重ねていくんです。では次に、このパンが売れ残った場合の損失はいくらでしょう」


「えーっと、原価の三枚がそのまま損失に……うわ、そう考えると怖いな!」


数字で現実を突きつけられると、人の意識は変わるものだ。

クラウスさんの、目の色が変わってきたのが分かった。


私たちは一緒に、新しい商品の試作にも取り組んだ。

私が提案したのは、蜂蜜をたっぷり使った子供向けの甘い「ハニーボール」。

そしてナッツやドライフルーツを練り込んだ、旅人向けの「森の恵みパン」だ。


クラウスさんは長年の経験を活かして、私のアイデアを見事に形にしてくれた。

試食したハニーボールは、優しい甘さで口の中に幸せが広がっていく。


店の前には、私が文字を書いた小さな黒板を置いた。

『本日の焼きたて! ふわふわハニーボール!』

『旅のお供に! 森の恵みパン!』


そしてパンの焼けるいい匂いが村に広がるお昼前に合わせ、店の窓を全開にした。

五感を刺激する、古典的だがとても効果的な方法だ。


最初は遠巻きに見ていただけだった村人たちも、香ばしい匂いに興味を惹かれたらしい。

一人、また一人と店を訪れるようになった。


「あら、クラウスさんとこのパン、なんだか美味しそうじゃない」

「この小さいパン、うちの子が好きそうだわ。一つちょうだいな」


ハニーボールは、村の子供たちに大人気となった。

森の恵みパンも、村の外へ仕事に行く男たちや旅人が買っていくようになる。


店の売上は、目に見えて上がっていった。

毎晩、私とクラウスさんは一緒に帳簿をつけてその日の利益を確認する。


「すごい、リリアちゃんの言う通りだ。こんなに儲けが出たのは、店を開いて以来初めてかもしれん……」


クラウスさんは、帳簿の数字を見て感嘆の声を上げた。

私への呼び方も、いつの間にか「小嬢ちゃん」から「リリアちゃん」に変わっていた。


改革を始めて一週間が経つ頃には、クラウスさんのパン屋は村一番の人気店になった。

以前の閑散とした様子が嘘のように、毎日たくさんのお客さんで賑わっている。

クラウスさんの表情も、以前のようなくたびれたものではない。

パン職人としての、自信と喜びに満ち溢れていた。


私も毎日美味しいパンをお腹いっぱい食べさせてもらい、少し頬がふっくらしてきた気がする。

フェンも店の看板犬として村人たちに可愛がられ、すっかり村の人気者になっていた。

この村での生活は、とても快適だった。


でも私は、ここに長居するつもりはなかった。

私の目的地は、あくまで商業都市ポルタなのだ。

この村は、そのための通過点に過ぎない。


「クラウスさん、そろそろ私はこの村を出ようと思います」


ある日の夜、帳簿をつけ終えた後で私はそう切り出した。

クラウスさんは、とても寂しそうな顔をした。


「……そうか、もう行ってしまうのか。リリアちゃんがいてくれたおかげで、この店は救われたんだがな」


「もう大丈夫ですよ、クラウスさんは一人でやっていけます。私が教えたことは、全てノートにまとめておきましたから」


「ああ、本当に何から何まですまないな」


クラウスさんは立ち上がると、店の金庫から小さな革袋を取り出した。


「約束の成功報酬だ、少ないかもしれんが受け取ってくれ」


革袋の中には、銀貨が数枚とたくさんの銅貨が入っていた。

これだけあれば、ポルタまでの馬車代を払ってもまだお釣りがくるだろう。


「ありがとうございます、それとポルタ行きの乗り合い馬車はどこで乗れますか」


私は、革袋をありがたく受け取りながら尋ねた。


「ああ、それなら三日に一度この村の広場に来るはずだ。確か、次は明後日だったかな」


クラウスさんが、親切に教えてくれる。

明後日、いよいよこの村ともお別れだ。

短い間だったけれど、ここでの生活は悪くなかった。


私は少しだけ名残惜しい気持ちになりながら、旅立ちの準備を進めることにした。

フェンが私の足元で、不思議そうな顔をしてこちらを見上げていた。

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